ASANOT BLOG / アサノタカオの日誌

編集者。本、旅、考える時間。

アンケート・今年度の収穫(2020)

 

現代詩手帖』2020年12月号に寄稿したアンケートを再掲載します。

 

f:id:asanotakao:20210310083115j:plain

 

萩原恭次郎『断片 1926-1932』(共和国)

志樹逸馬『新編 志樹逸馬詩集』(若松英輔編、亜紀書房

呉圭原『呉圭原詩選集——私の頭の中まで入ってきた泥棒』(吉川凪訳、クオン)

ホ・ヨンソン『海女たち——愛を抱かずしてどうして海に入られようか』(姜信子・趙倫子訳、新泉社)

高良勉『群島から』(思潮社

 

 二〇二〇年の読書は、萩原恭次郎『断片 1926-1932』とともにはじまった。銀色にかがやく美しく端正な装丁は、詩を読む冬の心をそのまま映し出す鏡のようだった。ページを開くと、序詩に「無言が胸の中を唸つていゐる」とある。第一詩集『死刑宣告』(一九二五年)で知られる、アナキズム詩人の第二詩集。「断片」の連作では、第一詩集にみられたアヴァンギャルド芸術的な言語実験は抑えられている。が、ある静けさから発せられることばの力、批評精神の力にむしろ打たれる。本書の発行者である下平尾直氏による「無言の思想の達成がある」との解説は、まさにと思った。寡黙な叛乱者のつぶやきから見える家族や生活、子供達の姿にも興味を引かれた。 

 時代に安住しない、声低く語られる詩のことばをさらに求めて、ハンセン病療養所の詩人、韓国の詩人、済州島の詩人、沖縄の詩人の本をひもといた。そして読書の歩みは、詩集以外へも伸びていく。天然酵母パン屋を営む現代の詩人、ミシマショウジのウェブサイト「黒パン文庫」に掲載された六月の作品。「そのパンをうばえ/さぁ そのおれたちのパンをうばえ/白いパンは朝に焼かれるが/黒パンは夜だ/真っ黒い夜をうばえ」

 新型コロナウイルス禍のなかで叛乱者のためにパンを焼く夜の詩人もまた、「無言の思想」の子供達のひとりであることを確信する。関東大震災後の暗い時代に書かれた萩原恭次郎の「断片1」は、次のように語り出されるのだった。「乳は石のやうになつて出ない/一かけのパンも食べない子供等にかこまれて/目の前に迫ってゐる敵の顔をぢつと見つめてゐる母よ」

 

 

 

歴史を問い、社会を問い、時代を問う小さな声

 

K-BOOK 読書ガイド『ちぇっく CHECK』Vol. 6 に寄稿したエッセイを再掲載します。

 

f:id:asanotakao:20201226112143j:plain

http://k-book.org/checkcheck/checkvol6/

 

 韓国の詩が心に住みついたのはいつからだろう? ハングルの読み書きができるわけでもないのに、日本語訳や、ときには英訳にまで遠回りしてとなりの国の詩を知りたいと願う自分がいる。

 

 僕たちもまた、飛び立つことができるなら
 この世界のむこうにあるどこかへ
 ガアガア鳴いて じゃれあって 一列に並んで
 僕たちの世界を運んでこの世界を去るのだ

 

 私が愛読するファン・ジウ(1952年〜)の詩「Even Birds Leave the World(鳥たちさえこの世界から飛び立つ)」。韓国の「社会参与派」の詩人による、1983年の第一詩集の表題作だ。ファン・ジウは学生時代に民主化運動に関わり、兵役を終えた後、1980年に起こった光州民主化抗争の真相究明デモに参加し、逮捕された経歴を持つ。この詩で渡り鳥のイメージに託される自由への願いは、軍事政権時代の韓国社会の抑圧的な空気を背景にしている。

 さて、多くの日本の読者がそうであるように、私もまた尹東柱(1917〜1945年)の『空と風と星と詩』から韓国詩の扉を開いた。これまで数々の翻訳者によって紹介されているが、在日の詩人・金時鐘によっても重みある日本語に訳されている。植民地統治時代、尹東柱は留学先の京都で独立運動へ関与した容疑で逮捕され、1945年、27歳で獄死した。彼が母語朝鮮語で書き遺したのは、決して政治的な抵抗の主張ではない。流浪の人生を生きるさびしさの裏で打ち震えるやさしさ、それをうたう「小さな声」としての詩のことばだった。

 小さな声。しかしそれは、個人の心情や内面に自閉するものではなかった。前に進むことしか知らない歴史や社会の波に押し流され、崩れ落ち、忘れ去られてしまうものたち。政治や経済の力が先頭で号令をかける時代にたったひとりで逆行し、記憶のかけらを拾いあつめて叙事と抒情につなぎとめ、未来に伝える。日本語(や英語)に流れこんだ韓国文学の水脈をたどるなかで、そのような使命に突き動かされた一連の詩人たちの系譜があることを私は知った。

 現在、済州島の詩人でジャーナリストでもあるホ・ヨンソン(1957年〜)の第三詩集『海人たち』の日本語版の編集を進めている。この本は、植民地統治下の島の海女たちによる出稼ぎ、抗日闘争、解放後の済州島4・3事件の歴史と記憶をテーマにした作品で構成されている。

 韓国の文学界では高い評価を得ているというが、日本語読者の心にどう届ければよいか。近年の台湾、韓国、香港では、大国と権威の論理に抗い、自由と自律を求める民衆の声が地を揺らしている。一方で、日本はどうか。この詩集が熱心に読まれる文脈は、今どこにあるのか。小さな「個」の側に立ち、歴史を問い、社会を問い、時代を問うことばを求めてきた自身の読書体験を振り返りつつ、思案している最中だ。

 

*ホ・ヨンソン詩集『海女たち——愛を抱かずしてどうして海に入られようか』の日本語版は、2020年3月、姜信子・趙倫子の共訳により新泉社から刊行されました。

 

 

チョン・ハナ K-文学を「詩」で味わう夕べ

 

現代詩手帖』2019年8月号に寄稿したエッセイを再掲載します。

 

f:id:asanotakao:20201129110243j:plain

http://www.shichosha.co.jp/gendaishitecho/item_2384.html

 

 6月20日、東京・神保町の韓国ブックカフェ・チェッコリで「K-文学を『詩』で味わう夕べ」が開催され、2018年に具常(クサン)文学賞を受賞した詩人、チョン・ハナ(鄭漢娥)さんのトークが翻訳家の吉川凪さんの進行でおこなわれた。

 「社会的な洞察をもとに資本主義の重大な問題を提起しながら新しい詩のスタイルを創り上げている」と評されるチョンさん。今回がはじめての来日で、以前カナダの英語学校で友人になった日本人女性との交流から語り出した。会場で配布された、詩集『ウルフノート』からの抄訳冊子(翻訳=吉川凪・東京外国語大学韓国文学研究室)にある「日本の皆様へ」と題された一文にこう書かれている。「詩とは私たちが話していたブロークンイングリッシュのようなものではないかと思ったりします。そう、それは、文法はめちゃくちゃだったけれど、ほとんどテレパシーのようなものだったに違いありません。たとえ、お互いに誤解していたとしても」

 1975年生まれ、10代から詩に興味をもち、ロマン主義の詩人の作品、デュマの小説『モンテ・クリスト伯』などを愛読。高校から文芸部に入って詩作をはじめるが、デビューは30歳をすぎてから。「ほどほどに憂鬱で退屈だったから、自分は詩人になった」とチョンさんは言う。「本物の孤独、悲嘆、生きづらさの渦中にいたら、詩は書けなかっただろう」と。

 近年、韓国社会でフェミニズムジェンダーの問題が注目されている点について意見を求められると、意識的にそういう視点を作品に盛り込むことはないとしつつ、MeToo運動に共鳴して文学界でも抑圧されてきた女性たちが声をあげ、性暴力を告発している状況を解説。現在、韓国の詩人たちは、言語の暴力性・政治性により注意深くなっていると強調した。

 軍事政権下の民主化運動とともにあった「詩と政治」の時代から、2000年代のポストモダニズム的な「未来派」をへて、チョンさんは「ポスト未来派」と目されている。韓国の詩の世界では実験的で自閉的な傾向、表現の技術や方法そのものへの関心を示す未来派以降、より静謐で伝統的なスタイルが回帰していると分析し、詩人のファン・インチャンらの名前を挙げた。

 最後にチョン・ハナさんは、「ローン・ウルフ氏」という架空の野宿者をめぐる寓意的でミステリアスな連作から一篇を朗読。「証拠が消える前に/あの森に入らなければ/そこでアベマキやブナの木の葉は何を見たのだ/ノロの小便は 居眠りするふりをしていた野鴨は 何を聞いたのだ」(「(スクープ)〈ウルフノート〉の失われたページ」より)。詩を読み、詩の翻訳を読むことで、「想像力の境界線を越える経験をしてほしい」と聴衆に語りかけた。

 

木村友祐の小説『幼な子の聖戦』

 

f:id:asanotakao:20200130084400j:plain

https://books.shueisha.co.jp/items/contents.html?isbn=978-4-08-771709-9

 

 「無意味」によって私たちの社会が占拠されている。

 長期政権下においてひたすらスキャンダルの対応に追われる政治家や官僚たちの発言、あるいはマスコミが次から次へと垂れ流す興味本位のゴシップ。私たちはそれらのあまりに無意味な内容にうんざりし、日々憤ったり落胆したりして、感情の血糖値の急上昇と急降下を繰り返しながら疲弊している。

 つかれきった頭脳の中には、この社会に存在する根本的な矛盾について、疑問を投げかける余力は残されていない。たとえば、東日本大震災からの復興を謳う2020年東京(札幌?)五輪が、震災後の福島第一原発から放射性物質が漏れ続け、原子力緊急事態宣言がいまなお発出される事態との矛盾を抱えたまま開催されることも、あっさりと見過ごされていく。

 メディアを介してウィルスのように大量増殖する「無意味」によって思考が侵されると、目の前にある現実の世界に生きるための目的を見出せなくなり、自身の存在すら無意味化される虚無感に落ち込む。人びとのあいだから信じるに足る「意味」という行方を照らす灯りが奪われ、視界をさえぎる靄のような不安や不満や憎悪の気分ばかりが蔓延する社会では、一触即発の緊張感があきらかにその濃度を増していく。

 大都市の満員電車に乗れば誰もが肌身で感じることだが、この暗い時代に私たちはみな、理由の定かでない「逆上」の一歩手前で、かろうじて平静を装っているにすぎないのだろう。日常は、すでに臨戦態勢に入っている。

 

 芥川賞の候補にもなった作家・木村友祐の「幼な子の聖戦」は、そんな私たちの社会が陥る極限状況を可視化した強烈な政治小説だ。

 物語の舞台は東北、人口約2500人の「慈縁郷村」で行われる村長選。主人公は、村議を務める中年男性の「おれ」こと蜂谷史郎。東京での挫折続きの暮らしを引き上げて村へUターンしたものの、実家が営む会社の後継者にはなれず、会長である父親の根回しによって村議になった男だ。敗北感を癒すように「人妻クラブ」なるセックス・サークルに入り浸っているのだが、A子との情事を彼女の夫に盗撮される。その夫は村を裏で支配する保守派の「栄民党」の県議で、村長選の候補を擁立していた。蜂谷は、盗撮動画を公開されたくなければ対立候補への妨害工作をしろ、と県議から脅迫される。

 対立候補の山蕗仁吾は、村のPR動画の制作や特産品の開発で注目を集め、「いつだって認められる星のもとにある」健全な人間とされる(そのことに蜂谷は「かすかなしこり」を感じている)。選挙演説では東京と地方の経済格差、過疎化や少子高齢化に象徴される絶望的な状況に抗い、旧弊を打破して新しい地域づくりを目指すリベラル寄りの改革路線を打ち出すことで、女性や若者層の支持を集めている。蜂谷は、山蕗とは保育園から中学校まで同級生だったが、どうしようもない嫉妬心も手伝って裏切りを決意し、吐き出すようにこうつぶやく。「おらの、底(そご)なしの穴ば、解放していいんだな……?」

 ネットで山蕗に関するデマを拡散して怪文書を配布し、恫喝まがいの甘言と金で村民を買収する蜂谷は、妨害工作にのめり込むうちに、やがて山蕗を暗殺し、殺される山蕗とともに村の伝説をつくるという荒唐無稽で狂信的なアイデアに精神を乗っ取られてゆく——。

 

 木村友祐のこれまでの文学作品では、現代社会の抑圧や疎外の渦中にあって、国家や資本の力によって存在をなきものとされることに抗い、生きることの意味をみずからの手で取り戻そうとする人びとの姿を希望の物語として描くことが多かった。

 たとえば長編小説『野良ビトたちの燃え上がる肖像』の主人公は、近未来の東京の河川敷に暮らし、アルミ缶を集めて換金することで糧を得る野宿者たちで、そこではかれらの苦闘が共感を持って語られていた。だが「幼な子の聖戦」では真逆の視点に立ち、現実の世界に希望はおろか、絶望すら見出せない虚無を生きながら権力に飼い殺しにされる者が、すべてを意味なきものとするために社会と自己をもろとも破壊し、テロリズムに突き進む内面に肉迫してゆく。

 『野良ビトたちの燃え上がる肖像』の物語には、ゴミ集積所などに「野良ビト(ホームレス)に缶を与えないでください」と看板を掲げる町内周辺に居住する「自警団」や、河川敷から野宿者を追い出すためにガソリン臭のする液体を小屋にまいて火を放つ匿名の者たちがいた。社会の中でそれぞれ立場は異なっても、同じ時代の生きづらさに鬱屈するかれらのその後の物語のひとつが、「幼な子の聖戦」と言えるだろうか。

 蜂谷はかつて、東京で怪しげな宗教団体の合宿に参加し、信仰の道に心が傾きかけたことがあった。「この世に無意味をもたらす破壊者になる」という子供じみた、しかし宗教心にも似た切迫した願いを純化させてゆく蜂谷のまなざしがはかりあうのは、山蕗の選挙演説会場で主人公が見かけた、震災後の福島から避難してきたらしい女の子と胸に抱く猫の「無垢」の目だったことを小説は暗示する。だが、悲願も大義も欠いた短絡的な自己正当化の「ストーリー」の中で鬱屈を深める蜂谷は、けっきょく破壊の天使になることにも、政治的テロリストになることにも失敗するだろう。

 

 東北の南部弁を用いた語りから息遣いすら聞こえてきそうな独特の文体が、不穏な緊張感をはらむ物語の展開を引っ張ってゆく。「幼な子の聖戦」は、つねに失敗し続ける殉教者まがいの男が内に抱える、無垢ともおぞましさとも言えない人間の複雑な性(さが)を執拗に描き尽くすことで、あらゆるものが無意味化される社会を生きるしかない私たち現代人の翳あるリアリティを抉り出してみせる。

 「……あどは、ハァ知らねぇ。いがんど(お前ら)全員、地獄(ジゴグ)さ連れでいぐ」。この小説を読みきった瞬間、理由の定かでない「逆上」を「聖戦」に昇華しようとして待機する匿名者たちの声なき声が、自分の内側から聞こえたような気がして、私は戦慄した。

 

温又柔のエッセイ『台湾生まれ 日本語育ち』

 

f:id:asanotakao:20181229224156j:plain

https://www.hakusuisha.co.jp/book/b373639.html

 

温又柔『台湾生まれ 日本語育ち』を読む。新書判、白水Uブックスのエッセイ集。出張帰りの新幹線で読んでしまおうと思ったがとんでもない。ことばに住まうとはどういうことか、ことばを旅するとはどういうことか。個人史のみならず、家系という集合的な記憶に織り込まれた複数の狭い道を丹念にたどり直し、温さんはそう問いつづける。さらっと読み流せる本ではない。


中国語、台湾語、日本統治時代の台湾に生まれ育った祖父母の日本語、80年代に東京に来た母親のカタコトの日本語。言語のはざまでゆれうごきながら、温さんは、「国語」から遠く離れたところで世界じゅうの声がひとしく響きあう小さくとも豊かなことばの風景を粘り強く描き出し、それを肯定する。

「国語」の中に、みんなが話すことばの中に、自分の声が見つからないさびしさを抱える、すべての人のために。

数日かけて、ようやく終盤の章「失われた母国語を求めて」まで、たどり着いた。戦前の日本統治時代に日本語で書いた台湾の作家、呂赫若の文学に迫る旅の記述に息をのむ。植民地主義の歴史を、自分自身が抱えることばの問いとして引き受け、読み解いてゆく作家・温又柔にしかなしえない「文学」。そこへ踏み出してゆく覚悟のようなものに触れて、打ち震えている。

『台湾生まれ 日本語育ち』は、90年代に花開いた「越境する世界文学」の思想を一段と深める、画期的な日本語論といえるだろう。私自身のことばの位置を確かめるためにも、これから繰り返し読む本になると思う。

 


後日、写真家の渋谷敦志さんから『The Future Times』の09号をいただいた。巻頭は温又柔さんと、ミュージシャンで同誌編集長・後藤正文さんの対談「私たちを縛る'普通'からの解放」。『台湾生まれ 日本語育ち』も紹介されている。「自分のことを肯定し直せるきっかけ」として小説について、ことばについて考える温さんの発言は、希望だと思う。

 

www.thefuturetimes.jp