ASANOT BLOG

本、ローカル、考える時間。編集者・淺野卓夫(あさのたかお)の日記

歴史に抗する野生の移民文学

 

『すばる』2010年11月に寄稿した書評(松井太郎著、西成彦細川周平編『うつろ舟 ブラジル日本人作家・松井太郎小説選』)を再掲載します。


1917年生まれ、日本語で書く現役最長老級の小説家による初の作品集だ。ただし著者は「日本」文学の伝統に属する人ではない。戦前にブラジルへ渡り、孤立する日本語の寄留地で文学的才能を開花させた。ブラジル移民は、すでに百年の歴史を経ている。日本文学では純文学からハードボイルドまで、しばしば格好の対象とされた当の移民社会でも、彼らの歴史とともに独自の日本語文芸が小さく生きのびてきた。言うまでもなく移民一世の日本語の書き手は、年々減少の傾向にある。歴史の暮れ方にある通称「コロニア文学」の主流が、郷愁のトーンを基調とする自分史的なリアリズムであることは想像に難くない。だが松井太郎は、そうした主流に収まることを禁欲する例外的なコロニア文学の作家だ。

表題作の長編「うつろ舟」は、ブラジル南部を流れる大河を背景に、妻との不和から家族や同胞社会との絆を断った元「日本人」の魂のさすらいを語る、骨太な貴種流離譚だ。「マリオ」という通り名で辺境の貧しい牧夫や漁師に身をやつす主人公「おれ」は、日系の青年農場主としての過去を封印し、むきだしの性と性が、噴き出す血と血が見境なくまじりあう奥地の「土俗」へ浸透しつつ、なお己の命運を冷めたまなざしで凝視する。フォークナーの「ヨクナパトーファ・サーガ」を彷彿させる圧倒的な語りの力によって、まさに「日本人が「日本人」でなくなる臨界点」(本書の帯より)を執拗に描き出す。

尾鋏鳥(おばさみどり)の渡り、旱(ひでり)と野火、その後の川の氾濫……。冒頭から続く辺境の地をめぐる自然描写と主人公の内省的独白の巧みな綾織りが、読者を引き込む。さすらいの旅の途上、「おれ」とイタリア系の老人との会話から戦後の時代とかすかに推測されるが、物語の時を刻むのはブラジル移民史でも主人公の個人史でもない。日が昇り、沈む。乾季の後に雨季が来る。永遠回帰する南米の野生の無時間のなかで、生きとし生けるすべてのものが、地上に確かな存在の痕跡を残すことなくやがて腐蝕してゆく。

死を語ること、「日本なるもの」の死を目撃し語り続ける不穏な執念が、松井文学を駆り立てる。それは、大文字の歴史の余白を埋める少数者(マイノリティ)の証言というよりは、歴史から消える陰惨な「定め」を歴史に安住するものに突きつけ、歴史そのものに抗する野生の移民文学たらんとする。「百年の孤独」を文字通り耐えぬいた異形の日本語文学の凄みが、語りの芯から迫り出してくる。

 

原民喜『幼年画』のことなど

 

三田文学』2016年冬季号に寄稿したエッセイを再掲載します。

 

詩人・作家の原民喜の短編小説「貂」の冒頭に、私の好きなこんな場面ある。

帰り路の屋根の色は青く黒く、灯は黄色だった。「夜、色鉛筆使っても駄目よ、黄色なんか白と間違えるから」と姉の菊子は云う。雄二は、しかし、白と間違ってみたかった。……雄二は赤鉛筆で杏の実をくるくる塗った。が、あんまり勢がよくて遠くまで線がはね出した。すると、これは杏が熟れてゆくしるしだと考えた。大へんいい考えなので、赤い線は四方へ跳ねて行った。雄二は暫く夢中で何が何だかわからない線を引いていた。気がつくと、真白な紙が火事のようになっている。

小学校入学以前の少年・雄二が、泣いて駄々をこねて母親に色鉛筆を買ってもらい、真っ白い紙に生まれてはじめてその色鉛筆の先を立ててみる。そして、子どもっぽい移ろいやすい心に映ずるものを、次から次へと夢中になって描いてゆく。民喜が自身の幼き日々の記憶をテーマに、生前に目次だてを準備し、単行本として一冊に編むことを夢見ながら、ついに果せなかった短編小説の連作「幼年画」の最初に置かれた作品が、「貂」であった。

冒頭のこの場面を読むたびに、私はある哲学者がこんなことを言っていたのを思い出す——われわれはいま歩くことができるが、赤ん坊の自分がはじめて二本の足で立って、最初の一歩を踏み出した瞬間を思い出すことはできない。同じように、幼い自分の目の前でゆらめく色やかたちが意味をなし、「世界」が立ちあらわれたはじまりの記憶も、そのまま取り戻すことは難しい、と。

自由自在に言葉を使いこなし、目の前の世界について語る能力を手に入れた大人たちが、永遠に奪還することのできない言葉以前の感覚世界を、小説の主人公である雄二はまだ生きている。時計の針を戻すことができない人間の条件ともいえる、宿命的な取り返しのつかなさに耐えながら、なお言葉によって言葉以前の世界へ回帰することを夢見る作家。それが、原民喜だったのではないか。

「幼年画」に収められた作品にふれた多くの読者は、子どもが子どもであった時代にみつめていた純真で瑞々しい世界のあらわれを、民喜が、選び抜かれた詩的言語できわめて正確に再現していることに驚くだろう。

『夜、色鉛筆使っても駄目よ、黄色なんか白と間違えるから』と姉の菊子は云う。雄二は、しかし、白と間違ってみたかった。

民喜が、みずからの分身である幼い少年・雄二に託して記した、「間違ってみたかった」というこの表現に出会うたび、私はたまらなく懐かしい何かに再会したような感動を味わい、心のなかで深く大きくうなずく。

二〇一五年八月、サウダージ・ブックスから原民喜『幼年画』を刊行した。

サウダージ・ブックスは、私が主宰する“ひとり出版社”で、神奈川県の海辺で旗揚げした後、流れ流れて現在は瀬戸内海の島とまちを行ったり来たりしながら本作りをしている。出版活動においては「旅」をテーマに掲げ、編集人である私自身は、本の向こう側に広がる未知の風景へ読者を誘う水先案内人でありたいと願っている。その思いは、立ち上げ当時から一貫して変わらない。しかしその時々の人や土地との出会いによって、出版する本のあり方は少しずつ変化していて、最近は「瀬戸内海の文芸復興」というテーマにも取り組んでいる。

いま、私が暮らしている香川県の豊島とそのとなりにある小豆島は、世界に誇ることのできる「文芸の島々」である。

小豆島からは、不朽の名作『二十四の瞳』の作家・壺井栄をはじめ、プロレタリア文学の詩人の壺井繁治(栄の夫でもある)、小説家の黒島伝治など、近代日本文学史に大きな足跡を残した文学者を三人も輩出している。ちなみに、壺井栄壺井繁治黒島伝治は同世代の島の顔なじみで、東京の大学に進学して文学活動や政治活動をおこなう繁治、伝治の後を追うようにして栄が上京したのが一九二五年。その翌年に、「咳をしても一人」の句で知られる自由律俳句の放浪詩人・尾崎放哉が小豆島の庵に流れ着き、病と貧困のなかで何千もの句を詠み、人生の最期の日々を送った。

小豆郡の一島である豊島では、大正昭和期のキリスト教の作家で社会運動家賀川豊彦が戦前戦中に一時生活し、農学校や孤児院等の建設など活動の根を残した。大正時代の大ベストセラー青春小説『死線を越えて』は、各国語に翻訳され、近年の調査によると、賀川が一九四七年と四八年のノーベル文学賞候補だったことが明らかにされている。ちなみに、壺井栄が文学に目覚めたのは、賀川が一九二一年に神戸で組織した三菱造船所の大争議に、友人の誘いで参加したのが一つのきっかけだった。

時代を動かす巨大な力に翻弄されながら、生きづらさにじっと耐える名もなき人びとの声に耳を傾けようとする彼らの文学活動を共通して支えるのは、「世直し」を希求する純粋な情熱だった。そろって十九世紀末の日本に生を受けた壺井栄賀川豊彦たちが必死に生き抜いたのは、加速する近代化の時代であり、つまりは戦争の世紀だった。かれらは自分たちの文学が、暗い時代を生きる人びとの行方を照らす灯りになることを願った。それは、誰もが内側に抱えるさびしさの奥で打ち震えるものを温かく包み込み、勇気づけ、はるか遠くの海から吹き寄せる風のように、時代を超えていまを生きる私たちの心にまで確かに届く。

原民喜は一九〇五年、広島に生まれた。先に挙げた連作小説「幼年画」には、父親に連れられて行った瀬戸内海の宮島への小旅行を描いた作品もある。

知られるように、民喜は若いころから死の想念に取り憑かれ、一九二四年の上京後に自殺未遂事件も起している。その後、最愛の妻を病気で喪い、妻のために「悲しい美しい一冊の詩集」を残して自らも死のうと考えていたところ、戦中の疎開先の広島で原爆投下に遭遇、みずからも被爆する。あまりにも痛ましい原爆被災の体験から、「夏の花」三部作や「鎮魂歌」などの不朽の名作が生まれた。

自分のために生きるな、死んだ人たちの嘆きのために生きよ。僕は僕のなかに嘆きを生きるのか。

一つの嘆きよ、僕をつらぬけ。無数の嘆きよ、僕をつらぬけ。

一篇の長編詩とも読める小説「鎮魂歌」の中に刻まれたこうした痛切で壮絶な叫びの声からも感じられるように、民喜のなかにも、世直しの詩人としての純粋で激しい情熱があった。

原民喜の文学は、リルケの長編詩『ドゥイノの悲歌』がそうであるように、本当に大切なものたちの死復活に捧げられている。死者の声に耳を傾け、死者の目で生をみつめることを使命とした詩人・小説家が、現実の人生において妻との死別、原爆の惨劇を体験し、一種独特の祈りの文学を創造したのである。いまはもうこの世にいない、懐かしきものたちに対する作家の祈りが深まれば深まるほど、その言葉にさす死の影はますます深く濃くなってゆく。そして、生きていくうえで喪失と破壊の風景を凝視しつづけることに耐えきれなくなった時、民喜が置き土産のようにして世界に遺そうと考えたのが、かけがえのない幼年時代の風景——少年・雄二を主人公にした、川遊びやお祭り、家庭や小学校でのささやかな出来事の世界だったのである。

* 

二〇一五年、広島への原爆投下から七十年という節目の年に、原民喜の詩や小説を新しい装いのもとに刊行しようと決心した。出版界を見渡してみると、原爆文学の『夏の花』以外の民喜の作品が、手軽に読むことができる状況ではなかった。

今年の夏の日、広島で民喜の文学的遺産を守る甥の時彦さんのご自宅を訪問し、直接お話しをうかがう機会を得た。戦後まもなく叔父と市街地へ「掘り出し」に行ったこと。その間、ひとことも言葉を交わさなかったこと。一緒に食べたダンゴ汁の味。後日叔父から届いた手紙……。八十歳になる時彦さんが追想する原爆投下直後の日々、詩人・民喜との寡黙な道行きをめぐる情景は忘れがたいものだった。

その時彦さんが、昔語りを終えるや否や、「しかし民喜の文学は原爆文学だけではないですよ。戦前に発表した「幼年画」など幻想的な作品のすばらしさも知ってほしい」と、強く語る。

実は、私は原民喜の作品集に関して別の企画を考えていたのだが、これは何かを託されたと直観した。「幼年画」の連作を一巻の小さな本にまとめるというアイデアは、このときの出会いと時彦さんの一言から偶然、生まれたのだった。

時彦さんは、これが叔父の蔵書ですといって、懐かしそうに何冊かの岩波文庫の表紙をなでていた。その表紙には、民喜の自筆のスケッチが描かれている。一見すると、他愛のない子どもの落書き風の線画なのだが、遠い神話の時代からやってきたような気配を漂わせている。不思議な絵だ。それは、色鉛筆ではじめて絵を描いた雄二が「白と間違ってみたかった」と思うその幼い心を、民喜が大人になった後も決して手放さなかったことを証している。

貴重なスケッチのうち、『モウパッサン短篇集 頚飾 他七篇』の表紙に描かれた一枚を、『幼年画』の最後のページに収録している。おそらく、本というかたちで公開されるのは、はじめてのことだろう。民喜の小説とあわせて、ぜひご覧頂きたい。

 

寡黙な「読者」忘れない

 

2016年12月24日付「毎日新聞大阪版に寄稿したエッセイを再掲載します。 

 
さまざまな縁がつながって、私が瀬戸内の島に移住したのは、今から4年前のことだ。関東で編集者として仕事をしながら、出版業界が東京に一極集中して、地方の声を伝えられない現状に疑問を抱いていた。学生時代に人類学や民俗学を学び、文化の豊かさはその多様性によって担保されるという考えを持っていたので、業界の中心から遠く離れた地で文化を発信する仕事に取り組んでみたい、という思いに目覚めたのだ。

香川県の小豆島を拠点にして最初に出版したのが、黒島伝治の小説集「瀬戸内海のスケッチ」だった。黒島は、「二十四の瞳」の作家・壺井栄と同じ小豆島出身で、大正・昭和に活躍した知る人ぞ知るプロレタリア文学者。本書は、そんな作家が戦前の小豆島で貧しくとも懸命に生きる人々の姿を描いた作品群を中心に、10篇の短篇小説と随想をまとめたアンソロジーだ。作品のセレクトと解説は、京都の古書・善行堂の店主で文学エッセイストでもある山本善行さんにお願いした。かねてより交流のあった山本さんから、小豆島で本作りをするのなら、黒島伝治の小説を復刻してはどうか、と強く勧められていたのだ。

プロレタリア文学」などと聞くと、いかにも難解そうなイメージを抱かれるかもしれない。現代の読者に受け入れられるか不安だったが、杞憂に終わった。本書は、刊行後から文学ファンのあいだで好評を博し、新聞や雑誌などメディアでも紹介された。毎日新聞の読書面には、現代詩作家・荒川洋治さんの書評が大きく掲載された。「文章と構成の素晴らしさ。文学を知ることは、黒島伝治を知ることだ」。「瀬戸内海のスケッチ」でスタートした出版活動の船出を祝福してもらえたようで、ことのほか嬉しかった。

この書評が新聞に掲載された日、まっ先に山本善行さんに電話をかけた。山本さんは、荒川洋治さんの著作の熱心な読者でもあるから、「本当に光栄だなあ、ありがたい」と嬉しそうに繰り返していた。ところが山本さんは、私にこんなことも話してくれたのだった。

「でもね、マスコミの評判ばかりに目を向けてはいけない。本当に文学を愛する多くの読者は、都会ではない地方にひっそりと暮らしている、声をあげない人たちだと思う。まわりに文学を語り合う友がいない孤独の中で、小説を読み続ける人は必ずいる。そういう読者は、最後のページを閉じてネットに気の利いた感想のコメントを書き込むわけでもなく、『ああ、良かったな』と心の中で思うだけで本を棚にしまう。文学を目に見えないところで支えているのはこういう人たちなんだ。君は地方で出版活動をはじめたのだから、きっと身近にいる、寡黙な読者の存在を忘れてはいけないよ」

2015年に私はひとり出版社を卒業して、香川県の高松で発行するローカル雑誌「せとうち暮らし」の編集部ととともに、瀬戸内人という出版社を設立した。香川、徳島、愛媛、山口、広島、岡山、兵庫の「瀬戸内7県」をフィールドに、島々と沿岸の地に生きる人々のストーリーを、「せとうち暮らし」で伝えている。その編集にも関わりながら、文芸書や写真集、エッセイやノンフィクションの本を作っている。 

香川と兵庫を行き来しながら、今は瀬戸内を俯瞰する立場から仕事をしている。いついかなる場所で、どんな本や雑誌を作るときも、必ず思い出す。「寡黙な読者の存在を忘れてはいけないよ」。地方出版の編集者としての私がいつも立ち返る原点が、この山本善行さんの言葉だ。

 

 

瀬戸内海のスケッチ―黒島伝治作品集

瀬戸内海のスケッチ―黒島伝治作品集

 

 

本当の自由とは何か

 

山と渓谷』2016年10月号に寄稿した書評「今月の一冊・『ヘンリー・ソロー 野生の学舎』今福龍太著」を再掲載します。

 

森に吹く「自由」の風が、不思議な親しさをもって、読書に集中する額をなでていく。本を介して野の道を逍遥する者の心に、ハックルベリーの実の甘酸っぱさが、スカーレットオークの美しい葉の形が、マガモが沼地を飛び立つ音が、何かを語りかけてくる。  

森の主はヘンリー・デイヴィッド・ソロー。一九世紀アメリカ東部出身の思想家。コンコードの町外れにあるウォールデン湖畔に丸太小屋を建て、二年の自給自足の生活を送った。その暮らしの記録と省察をまとめた名著『ウォールデン 森の生活』で知られる。  

『ヘンリー・ソロー 野生の学舎』の著者は、『ジェロニモたちの方舟』(岩波書店)等で独創的なアメリカ論を展開する批評家・人類学者の今福龍太。本書は、そんな著者が『ウォールデン』をはじめとするソローの著作と膨大な日記を丹念に読み解き、その思想と人生に迫る一二篇のエッセイを集めた評伝である。

なぜいま、ソローを読み返す必要があるのか。著者は、このような言葉で読者を知の森へ誘う。

鬱蒼たる樹林のなかを遊歩しながらふと立ちどまり、静寂のなかで足下のかすかな流れの音に気づいたら、苔むした地面に細々と湧き出る清冽な水を掌にすくい取り、一口味わってみる……ソローの著作を読むことは、知性の森を逍遥しながら、この清冽で慎ましい水を飲むことに等しい 。 

森のなかで湧き水を手にすくって飲むように、「経験」から教えを授かろうとすること。「私は別種の学校において自分の教育を成し遂げたいのです」というソローの言葉を引きながら、著者は、慎ましい意志をもって「自然のなかにおかれた自らの真実」を学び直そうとする者のための場を、「野生の学舎」と名づける。  

俗世間からの隠遁をすすめるわけではない。ソローが森を歩くのは、自然観察と哲学的内省によって人間社会を問い直すためだった、と著者は説く。  

急激な産業化の時代を背景にアメリカ国家が行う非道な戦争や奴隷制を、ソローは厳しく批判した。だが知識人のサロンや市民運動に群がることなく、霧の漂う森をひたすら歩いた。そして文明の危機にあって、人間にとって本当の自由とは何かを考えるための手がかりを、たった一人で探しつづけた。野鳥の尾羽を拾い、先住民の矢尻を掘り出し、切り株の年輪を指でなぞって数えながら。

ソローは言う。「私は豆畑を抜け出すようにして政治の世界を抜け出すと、森のなかに入ってゆく」  

湖畔の森におけるソローの繊細な思考の道筋を、著者はこう敷衍する。

ハックルベリーを求めて歩き出すこと。それは、政治を徹底的に相対化し、無化し、そのうえでふたたび人間と社会の関係について原点から思考するための、反時代的にして、もっともいま求められる行為にほかならない。  

ソローの野生と自由の哲学を現代に受け継ごうとする著者の強い意志、そして森を歩くその孤独の喜びを分かちあおうという知的な共感——本書全体を流れるこの深い「親しさ」に、感動を覚える。

ソロー独自の自然の本性に基づく憲法観を論じた章「より高次の法」は、ソローがそうであるように決然としている。哲学者ブロンソン・オルコットとの静かな友情を語る章「たったひとりの共同体」は、彼らがそうであったように高潔で美しい。

本書は、野生の学舎の最前列で学び、ヘンリー・ソローの精神の兄弟になった著者からの、すばらしい知と良心の贈り物である。 

さあ、ふさわしい時がやってきた。季節の変り目、森の木々のはざまを俊敏に動き回る霧を追いかけて、私たちもソローの精神とともに逍遥の径に踏み出そう。

 

詩と夜空にかがやくもの

 

小学校から帰ってきた幼いむすめが、しょんぼりしている。何ごとかと思って聞いてみいても、なかなか答えない。親としてはとても気になるけれど、まあ、そんな日もあるだろう。

実を言えば、ぼくもひどく落ち込んでいたのだった。

冬の星座でも見にいこうか、とむすめを誘って夜のドライブに出かけた。まっ暗な坂道を走り、島の山の頂上をめざす。車を降りると、つめたい海風がびゅうっと吹きつけてきて、やはりさむい。

展望台にあがり、瀬戸内に浮かぶ島々の影や、遠くで輝く町あかりをながめる。きれいだ。

となりの島のずっとむこう、あれは姫路かな、まさか神戸じゃないよね。貨物船やフェリーが、一隻、二隻、音もなく海上を横切っていく。

そして、みあげれば満天の星。さえざえとした月明かりが美しい、そんな夜だった。

ぼくらは星と星をむすび、星を数えた。山のてっぺんで、夜空にかがやくものとぼくらをさえぎるものは、何一つない。

ぼくとむすめ、ほとんど言葉はかわさない。

数日前、尊敬していた詩人の訃報が、島に届いたのだった。

はるか南の群島の方言を舌にのせて、歌うように書く詩人だった。いつか詩の本つくりましょうよ、と約束していた。会う時はいつも、ヨットを愛するやさしい海の男の顔をしていたけれど、かれは正真正銘の「闘う詩人」だった。

1971年10月19日の「沖縄国会」冒頭、佐藤栄作首相の所信表明演説の最中に、「沖縄返還粉砕!」を叫んで逮捕。

法廷で、八重山方言での陳述をつらぬき、「日本語を話しなさい!」と叱りつける裁判官に「通訳」を要求。

 

あめにうたれて なきぬれて

とうりんじに あまやどり

するうち そのうち におうさんが

みんたまぴからし くんじょうくれぇおおったそんが

あれはいつのことだったかと ゆあみぶし

きざるきざるの きむぐりしゃ

なんかなんかの なぐりしゃ

あっつぁ あすとぅぬや そうろんやそんが

わあや くとすんくらるむばあ という

ははのでんわも ほそぼそくもり

おやのこころ こしらず は

めぐりめぐって ちゅんじゅんながれ

ちほうのおやは このかおわすれ

このかおは しだいに おやににてくる

ねんぶつおどりの よるの とおりあめ

——真久田正「夜雨」

 

月と星の光は、メランコリーの最高の友だちだ。

すべてをあかるみにさらす太陽とちがって、暗がりのなかで膝を抱えるように、多くを語りたくない日の孤独によりそってくれる。

冷たくかじかんだむすめの手をぎゅっとつかんで、ぼくは、雨のようにふりそそぐ白い光を黙ってあびている。黒々とした茂みから飛び立った大きな鳥が、夜空をはばたいていくのを、二人きりで見つめている——。

なんだか、たまらなくさびしいこの場所で、詩を読む目と耳が、そっとひらかれていくような気がした。

 

はるかなみらいの とほうもない ゆめをみながら

かたくなに いきていくのは 

もう ちと こころぼそい

せめて このよの ひとのなごみを

やわやわとすでる かぜになりたい

——真久田正「NOTICE(ウンチケー)」より

 

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神戸新聞を読んで 4

 

2016年6月に神戸新聞にて、週1回の紙面批評の連載(4回)を担当しました。ブログに再掲載します。第4回、最終回です。

 

誰かと一対一で対面する時に自分の顔を見ることはできない。手掛かりは目の前にいる相手の表情しかない。その顔に笑みが浮かんでいるか、悲しみや怒りが浮かんでいるかを見て、わが身のあり方を思い知る。

毎朝届く新聞の1面は、まさに「顔」である。

そこでは、ある事件や出来事をめぐるニュースが表情になる。紙面に向き合う私たちは、その表情を読みとり、喜怒哀楽の感情を抱く。そして一日のはじまりの時間に、自分がどのような顔で生きるのか、朝刊はその態度を導いてくれる。

しかし目の前にいる誰かに、本当に大切なことを避けるように人ごとのような話ばかりされては、どんな顔を向けてよいのか分からない。

私は6月14日以降の神戸新聞にそれを感じた。

舛添要一東京都知事の辞任に向けた一連の報道である。実に14日付朝刊・夕刊、15日付朝刊・夕刊、16日付朝刊1面トップで報じられているのだが、県外の一自治体の首長の動向がそれほど大切なことなのか。

地方紙に全国や海外のニュースは不要である、と主張するつもりはない。参院選に関わる国民の関心事であることも知っている。読者のニーズがあると言われればそれまでだ。

だが、マスメディアが足並みをそろえて演出する「政治的追放劇」の空気に、ニュースの発信者のみならずその受け取り手である読者も、虚しく踊らされているだけではないのか。

20日付朝刊1面は「沖縄『県民大会』米海兵隊の撤退要求 女性殺害事件6・5万人が追悼」。先月起こった元海兵隊員軍属による女性暴行殺害事件。それに抗議する、沖縄県民の怒りと基地反対の意思の高まりを伝えている。

「都知事辞任」報道の陰に隠れて、テレビなどでは沖縄という地域社会を踏みにじるこの火急の問題が十分に報じられていない印象があり、こうした記事をじっくりと読むことのできる時間は貴重だ。

同日付27面では「涙の訴え『本土も加害者』」とあり、被害者と同じうるま市にすむ大学生・玉城愛さんのスピーチが紹介されている。被害者の父親のメッセージも全文掲載。どの言葉も、本当に大切なことだけを語っている。

痛ましい言葉が、「本土」に暮らすこちら側の目を見つめ、私たち一人ひとりの態度を問う。

記事を読む私に、応答の言葉はない。今は瞑目してうつむく以外に、表情の作り方が分らない。しかし人生という時間を費やしてでも対面するに値する、忘れられない「顔」が、確かにそこにあった。

 

神戸新聞を読んで 3

 

2016年6月に神戸新聞にて、週1回の紙面批評の連載(4回)を担当しました。ブログに再掲載します。第3回です。

 

8月に開幕を迎えるリオデジャネイロ五輪。スポーツ面を中心にブラジル関連の記事が目立ってきた。

本紙がその名を冠する神戸という町は、1908年以来、日本全国から集まったブラジル移民の大半が神戸港を経由して新天地へ旅立ったこともあり、歴史的にブラジルとの関わりが深い。

先月、三宮で開催された神戸まつりでも、日本在住のブラジル人らによるリオ五輪をテーマにしたサンバチームが、にぎやかに路上を練り歩いていた。

6月9日付朝刊社会面「五輪控えたブラジル知って/神戸 写真や民話題材の絵展示」もそうした記事の一つ。この展示は、関西で暮らすブラジル人児童の教育支援などを行うNPO法人「関西ブラジル人コミュニティ」が協力している。

実は、私と神戸のつながりを最初に作ってくれたのが、そこのスタッフで日系ブラジル人2世のサッカー指導者、ネルソン松原さん(64)だった。

70年代にブラジルから札幌大学へサッカー留学をした後、札幌のクラブチームのコーチとして再来日。指導者としてキャリアを積み、川崎製鉄サッカー部ヘッドコーチを経て、ヴィッセル神戸ユースコーチ(後に監督)に就任。

神戸にやってきたのは、1995年3月。

阪神・淡路大震災で傷つき、立ち上がる街とともに、若い選手の育成につとめた。命令や強制ではなく、「自分で考える」ように導くのがネルソン流。転がるボールを追いかけて、ブラジル、札幌、神戸と旅してきたその人生をまとめた自伝「生きるためのサッカー」を2年前に刊行した。

6月2日付朝刊社会面「多文化共生 活溌に意見/差別の事例紹介 啓発徹底へ」。「ベトナムにルーツを持つ子どもの多くが日本名に改名している」とあり、暗たんとした気持ちになる。

先週、米国フロリダ州で、過激派組織「イスラム国」との関係が示唆される容疑者による銃乱射事件が起こり、世界を震撼させた。異なる存在を憎悪し排除する社会の空気が、世界中で漂っている。

本は、未知の世界への扉。

読書によって、それまで知らなかった世界、異なる社会や時代、そこに暮らす人びとの物語を知るのは楽しいことだし、人間文化の豊かさは多様性によって保証される、というのが出版人としての私の信念だ。

編集を担当した最新刊は、ブラジル移民の故・大原治雄氏が南米の大地と家族を撮影した写真集「ブラジルの光、家族の風景」。同題の展覧会が18日に伊丹市立美術館で始まった。遥かな世界の輝きを、1人でも多くの人に見てほしい。