ASANOT BLOG / 淺野卓夫の日誌

編集者。本、旅、考える時間。

津島佑子コレクション『悲しみについて』『ナラ・レポート』

 

 

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http://www.jimbunshoin.co.jp/book/b282980.html

 

 津島佑子が亡くなったよ。

 2016年2月、ネットニュースで小説家の訃報に接し、台湾の友人へすぐにメッセージを送信した。学生時代からの友人である彼女は日本文学の研究者で、津島佑子の長編『ヤマネコ・ドーム』を題材に論文を書こうとしていた。冷戦文学をテーマにしたこの論文を日本語で書き上げたら、編集者としてネイティブチェックをしてほしい、自分のライフワークとなる大切な仕事だから。ちょうどその頃、友人からそう頼まれていたこともあり、いち早く情報を知らせようと思ったのだ。

 この日から、私と友人はSNSを介してしばらくやりとりを続けた。そして、日本文学を代表する小説家であり、現代の「語り部」でもある津島佑子という作家がいなくなった喪失感を分かち合いながら、その意味をともに考えたのだった。

 歴史の表舞台から置き去りにされた忘れられた人びとの声、とりわけ喪失や欠落の痛みを抱える女性たちの声の木霊を、小説という文学の織物として示しつづけたのが、津島佑子という作家の生涯だった。

 1947年生まれ、学生時代から小説家・中上健次らも参加した「文芸首都」などの同人誌に作品を発表し、71年に『謝肉祭』を刊行。自身の実体験をもとに母子家庭、長男の死をテーマにした小説を書く一方、91年の湾岸戦争に文学者の立場から反対するなど、社会問題への発言を積極的におこなう。また世界各地を旅するようになり、アジアの作家たちとの交流にも尽力した。

 ある時期から小説の舞台は「家族」を離れ、地理的にも時間的にもよりスケールが大きな世界に変わった。そのような後期の代表作に、『あまりに野蛮な』や『ジャッカ・ドフニ』がある。

 

 私が津島文学と本格的に再会するきっかけを作ってくれたのは、2017年6月に人文書院から刊行が開始された「津島佑子コレクション」第1期・全5巻だった。美しい装丁の著作集だ。

 作家の没後、これを機に小説を読み返そうと思っても、しばらくのあいだ彼女の著作は新刊書店からすっかり姿を消し、簡単に手に取ることができなかった。

 純文学が売れない時代。このジャンルの作家がほんの数年前に刊行した「近作」すら、書店の棚からあっという間に消え、何かのきかっけで話題作になるか、古典として評価を受けるなどして文庫化されないかぎり、入手が難しくなる(古本屋や図書館で探せばいいのだけど……)。

 だから人文書院の「津島佑子コレクション」の予告を知ったとき、亡くなった作家の「ことば」の灯火を読者の前から消してはならない、という出版社の並々ならぬ意志の強さに、思わず快哉を叫んだのだった。しかもそれが、出版産業の中心である東京ではなく、京都の版元の企画であることにも良い意味で驚き、現代文学のあたらしい息吹を感じた。

 第1巻は『悲しみについて』。80年代後半の「家族」を主題にした小説を集めている。

 このあたりの津島佑子の小説は、20年以上前の20代のころに読んでもまったく心に響かなかった。文学の世界では「中上健次以後」ということがしきりに言われた時代、まわりの教養主義の空気に影響されて、つまらない自己顕示欲から一応読んだふりをしていただけだ。しかしいま読むと、これら初期作品のことばが、砂漠に水が染み込むように深く入ってくる。

 この巻では、とりわけ「春夜」という中篇に息をのんだ。「母」と「私」と子どもたち、世代から世代へまっすぐに流れるはずの時間が逆流し、交わり合うような幻想的な語りを通じて、家系という感情生活の深淵をのぞきこむような作品だ。

 第4巻の『ナラ・レポート』。こちらは教科書的な「正史」、つまり勝者や権威によって書かれた歴史を逆なでする凄まじい長編小説、2005年の作品だ。

 母親と死別した少年・森生(モリオ)が、言い知れぬ憎悪と悲嘆の感情によって母の魂を呼び戻し、ナラの大仏を破壊するという苛烈な想像力によって、日本史から疎外された死者たちの苦しみの封印を解く。

 津島佑子はこの作品で、内に押し込めなければならなかった愛する者との別れの記憶を、私たちの常識的な理解を打ち砕くような壮大な文学表現として鍛え上げ、造形している。「神話的」と言っていいだろう。個の悲しみは、集団としての種の悲しみをめぐる大いなる物語の川に合流し、読むものの感情もまた、時空を超えた果てしない地平へとさらわれてゆく。

 

 いま、世界や日本社会のあちこちで、歴史の中で沈黙を強いられ、封じ込められてきた声たちが地揺れを起こしている。たとえば、#Metooの運動が大きなうねりとなっているのは、そのような兆候の一つだろう。亡き作家は、私たちが生きる現実の半歩先、あるいは半歩後ろで、想像力を駆使してそうした声の解放に取り組んでいた。今こそ津島佑子の小説は本格的に読まれるべき、という思いを強くしている。そのことばに勇気付けられ、救われる人は少なくないはずだ。

 津島文学のどの作品にも、読むものに悲しみを悲しむことを促す独特の力がある。普段は閉ざしている感情と記憶の蓋を開いて、なかったことにしようとしてきた何かを心静かに見つめることを促すのだ。

 そこにどのような人生の意味があるのかすぐにはわからないが、読み終えれば確実に世界が変わる。津島佑子のことばを宿すことで、目の前にいる他人が内に深く抱える悲しみ、痛み、さびしさに気づくからだ。

 このような読み方ができるようになったのは、20代の頃からさらに時を経て、私自身が喪失の経験を人並みに積み重ねてきたことが大きいだろう。文学は、こんな風にして、読者の中で真に読むべき時が満ちるのを辛抱強く待ってくれる。

 

管啓次郎『本は読めないものだから心配するな』

 

『文藝』2010年春号に寄稿した書評を再掲載します。

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http://sayusha.com/catalog/books/longseller/pisbn9784903500591c0090

 

 奄美の島への旅から戻ると、冬の自宅でこの本の読書がまっていた。波と南風、光と夜の鳥の声の鮮烈な記憶の渦巻く頭で、文字を追うのはまだ難しい。けれどソフトカバーの本を丸めたり開いたりしてからページをめくると、不思議な懐かしさがこみあげてくる。

 旅と読書を主題とするこのエッセイ集のあちこちに登場する「島」の名が、そんな感情をかき立てる一つの原因だろうか。例えば山口県大島、ハワイ、カリブ海マルチニック、カナリア諸島アイルランドカーボ・ベルデ。あるいは各エッセイの文頭にゴチック体で記されたタイトル「潮を打つように本を読みたい」「珊瑚礁とフィクション」「ラグーンと干潟」……。

 「ラグーンと干潟」、こういう即物的な標識が導く文の道なら、島帰りの心にもなじむ。アオテアロアニュージーランドの女性作家、ジャネット・フレイム。陸と海のはざま、潮が引けば、死の匂いのなかで干潟の水溜まりが人と事物の姿をひとしく映し出す。そんな「世界の中間地帯」への透明なまなざしが、作家の現実の生を狂気の淵から救済した。強く胸を打つ話だ。

 本のかたちにも島を感じる。カバーを外した表紙の色は、南島の畠の赤土を思わせる。見返しの紙の緑と青は、海の色。そしてこの本のもっとも際立つ形態的な特徴が、ほぼすべての奇数ページの左上に一句ずつ記された、詩的なことばの断片群だ。

 通常この部分には「柱」と呼ばれる、読者が今どのパートを読んでいるかを示す章題などが付される。ところがこの「詩的なことばの断片」は、読書という歩行の現在地を示さない。「風が吹く、ゆえに、われあり」とか「背後には何もない。何もない」とか「地点には記憶がある」とか。章題ではない、謎めいたメッセージ。見開きページの文章から即興的に選び出され、テクストの秩序の重力圏から離脱して浮遊するそれを一体何と呼べばいいのか? 

 「マブリ(=蝶/魂)」という島ことばが閃いた。奄美では、ふわふわ舞う蝶はあの世とこの世の境界に現れる霊魂とされる。集落の水場には、枝から無数の気根を垂らす榕樹(がじゅまる)の森があり、高いところを美しく巨大な翅を広げるオオゴマダラがゆらりゆらり。

 風景をタテに刻む幹や気根は、本のページになぞらえれば行の連なり。そして行の連なりと天のはざまの余白=世界の中間地帯にいるのが「マブリ」としてのことば。本書の「柱」は、先行する読者が残した深遠な書き込みのようにも読めるし、読者がそれぞれのことばの魂を文の森から探すようにうながす誘い声とも読める。

 そう、どの読書からも飛び立つ一つか二つのマブリは、書かれた内容の固有の文脈や前提となる知識をこえる喜ばしい詩の贈物として、忘れっぽい心に迷い込み、人生の歩みを思いがけない方向に曲げる。

本との接合面に生じた一回きりのよろこびを、これからやってくる未来の別のよろこび(読書によるものとはかぎらない、生のいろいろな局面でのよろこび)へとつなげていくこと。

 最後に、「読書の目的は内容の記憶ではない」と説く著者は、この「つなげ」の世界を、亡き友から贈られたことばを借りて「本の島々」と呼ぶ。はじめに感じた懐かしさの本当の原因は、読むことの汀で夢見られたこの素晴らしい眺望にあった。

 

単独性にたった連帯をうながす「物語」とは 星野智幸の小説『焔』

 

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http://www.shinchosha.co.jp/book/437204/

 

 星野智幸の小説『焔』を読了。2018年1月末の刊行。ちらちらと目にする口コミや予感から、読んだらハマって抜け出せなくなるのではないかと恐れて今日まで禁欲してきたのだが、近所のK書店でついに手を出してしまった。

 案の定、ハマってしまった。一度読みはじめれば、堰を切ったように想像力の奔流が止まらなくなり、流れに乗って心はさらわれるしかない。

 最高にスリリングで、切実な問いを突きつけるオムニバス小説。戦争と異常気象が日常化し、弱肉強食の経済原理が人心を荒廃させる近未来のこの国で、最後の生き残りたちが焚火を囲んで語る9つの奇妙な変身譚から構成されている。 

 人々が互いに敵か友かを監視し合い、つねに何者かであることを洗脳され強制される社会から脱出するためには、「自分」でない何ものかに「移し身」するしかない。そうでなければ自分が自分であることを自ら確かめ、誰かに伝えることすらできないという逆説。そんな絶望的なエクソダスをめぐる語りが次から次へと横滑りし、抑圧と自由がせめぎ合う物語群の展開に息を呑む。

 語り手はそれぞれの変身譚を語り終えると暗闇に消えてゆき、世界から一人ずつ人間がいなくなる。理由の判然としない絶滅の気配が、ひたひたと押し迫る。あの語り手たちはいったいどこに旅立ってしまったのか、やがてなくなろうとしているこの焚火が燃える現実は何なのか。

 人間が貨幣になり自らを売買するディストピアを語る「人間バンク」、介護疲れの家庭から老人を格安で引き取る謎の団体をめぐる「何が俺をそうさせたか」。こうした物語に示される絶望を目の当たりにすると、これは他人事ではなく私たちが生きる社会そのものではないか、と呪いにかけられたような重苦しい気持ちになる。

 しかし最後、こちらの常識的な理解が炸裂する解放感がもたらされる。ラストの「世界大相撲共和国杯」を読んで、ぜひそれを体験してほしい。未来の「角力」界では、力士も部屋も協会も今以上に多国籍化し、男もおかみさんになるなどジェンダーの縛りがなくなり、国技館の館内にはエスニック料理の露店や古本屋などが無秩序に並んでいて痛快だ。

 

 この小説を読み終えて考えたのは、感情の血糖値を上げて集団的な熱狂へ誘う共同体のための物語(私はそういうのが大嫌い)ではない、それぞれの単独性にたった連帯をうながす「物語」とは何かということ。

 共同体が押しつける唯一の物語に服従し、服従したものどうしが内輪で群れることの息苦しさに対して、「共同体の外部へ越境して何かと何かの間で生きなさい」と呼びかけて事足れりとするのではない道。

 小説の冒頭で語られる「私たちは、物語に失敗し続けてきた」という自覚の上でなお、集団の大きな声に代表されないほかならぬ自分の物語を語り手と聞き手が分かち合い、そのことで一人と一人が熱狂とは別の回路でつながり合う共存関係はどうすれば可能なのか。

 読者であり聞き手である私は今、心の中で小説の舞台である草原のはるかな風景を見渡しながら、答えではなく、その問いの入り口に立ち尽くしている。

 当たり前のことだが、分かち合われる物語のベースにあるのは「言葉」だ。信じるに値するその意味だ。政治権力が率先して言葉に対する私たちの信用を暴落させるこの国の現実を思うとき、「世界大相撲共和国杯」の主人公・ハシブが吐露するつぶやきが忘れられない。

ぼくは一瞬、よく理解のできない絶望にかられた。無数の物語の集積が、ぼく一人にのしかかってくる。すべての物語を、ぼくは知り尽くすこともできない、受け止めることもできない。

 国技館の「ちゃんこ市場」には、トルタ売りのメキシコのお兄さんがいて、カフカース地方のオセチアから逃れた亡命親子がいる。「それぞれ重く逃れようのない物語を抱えて」生きる無数の他者たちが交錯する風景に、ハシブは打ちのめされ、口を閉ざす。だが、この「よく理解のできない絶望」を裏打ちする、世界の圧倒的な多様性に対する彼の謙虚さこそが言葉の、物語の、文学の信用回復のための鍵ではないだろうか。

 

 書物としての小説『焔』を飾るのは、横山雄の装画・題字を箔押ししたインパクトのある装幀。それは、燠火のようなゆらめく輝きを放つ。カバーを外した表紙、薄く文字がうかびあがるような扉、本文のレイアウトなど、随所に小説の世界観に奥行きを与える工夫があり、ブックデザインを眺めているだけで陶酔する。

 手元に置いておきたい、美しい本だ。

 

岡村淳のドキュメンタリー『リオ フクシマ 2』と山尾三省の詩

 

 ブラジルの記録映像作家、岡村淳さんの最新作『リオ フクシマ 2』の上映会に参加した。期待をはるかに上回る、素晴らしい作品だった。そして予想に反して、鑑賞後にこれほど静かな気持ちになれる作品だと思わなかった。

 映像作品から受け取ったメッセージを感動とともに反芻しながら、たまたま詩人・山尾三省の本を読んでいると、自分の中で岡村さんのドキュメンタリーと強く響き合うものがあった。そこで考えたことを記しておきたい。

 

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 詩を読むとき、私はたいがい「私」という仮面をかぶっている。自分の肉眼では見ることのできないその顔には何と書いてあるのだろう。「批評」だろうか、「思想」だろうか。「歴史」だろうか、「社会」だろうか。顔は、なんとかその意味を理解してやろうと身構えているにちがいない。

 ところが、山尾三省の詩を読むとき、私は「私」を脱ぎ捨てることができる。意味に意味を上塗りするような、解釈の言葉を脱ぎ捨てる。「私」を脱ぎ捨て身軽になって『聖老人』や『びろう葉帽子の下で』といった詩人の書物を訪ねれば、いつもそこに変わらぬ三省の詩という火が焚かれていて、心の底から安心する。

「いろりを焚く」

 

家の中にいろりがあると
 

いつのまにか いろりが家の中心になる
 

いろりの火が燃えていると
 

いつのまにか 家の中に無私の暖かさが広がり
 

自然の暖かさが広がる

 
 屋久島の森のそばで生きて、死んだ詩人が遺したことばだ。山尾三省は、環境問題やアニミズムの思想家でもある。

 三省の詩はほかならぬ三省の詩でありながら、どの作品にも「無私の暖かさ」が広がっている。詩人の「私」ではない、何か大いなるものが、詩人の「私」を通じてうたっている。

 詩のことばを読み、「無私の暖かさ」に心の手をかざしながら、疲弊した言葉の意味がやわらかく回復するのを静かに待つ。家、いろり、いつのまにか、自然。人類が当たり前のように使ってきた言葉に、当たり前のように込められてきたはじまりの意味がふたたび宿るのを、私はひとつひとつ確かめる。

 

 先週末(2018年4月14日)、下高井戸シネマで在ブラジルの記録映像作家、岡村淳さんの最新作『リオ フクシマ 2』を観た。岡村さんのドキュメンタリー作品を鑑賞している間、私は山尾三省の詩に抱くのとまったく同じ「無私の暖かさ」を感じつづけていた。

 2012年、リオデジャネイロで開催された国連の環境会議と並行して、世界中の市民団体が集会やデモを行うピープルズサミットが開催された。主人公は日本から参加したNPOの代表、坂田昌子さん。岡村さんは、ピープルズサミットの会場で福島原発事故生物多様性の問題を訴える彼女たちの団体を追いかけ、撮影を続ける。

 会場の屋外スペースに張られたテントの中で、持続可能な環境について、公正な社会について熱心に語り合う真摯な人びとの姿がそこにある。しかし私が忘れられないのは、岡村さんがこのサミットの渦中から一歩身を引く印象的な場面だ。

 さまざまな主義主張を訴える市民団体による大規模なデモ行進がリオの路上で繰り広げられるかたわらで、岡村さんは「カンデラリア教会虐殺事件」の現場をたった一人で訪れる。

 路上で生活していたストリートチルドレン8名が、貧困層への差別と治安悪化を理由に銃殺された事件。発生から20年以上経ち、いまやほとんど誰も見向きもしない子どもたちが斃れた現場に、カメラを構える岡村さんは追悼の思いを込めて寝そべる。

 「声」を記録する。と同時に「声の圏外」にある沈黙にも反応し、それを記録せずにはいられない岡村ドキュメンタリーの変わらぬ意志に打ちのめされた。

 そして『リオ フクシマ 2』を観終わって、この作品はある意味で岡村さんの自伝ではないか、と私は感じた。

 主人公たちの他に、通りすがりのブラジル人の学生たち、カカオを売る土地なし農民運動のリーダー、リテラトゥーラ・コルデル(紐吊りの文学)という冊子を売る地方の吟遊詩人、国際的に活動するジャーナリスト、弁護士、科学者などが、東日本大震災以降を生きる私たちに向けて、飾らないことばでメッセージを送る。

 そして、あの虐殺されたストリートチルドレンたちの沈黙。

 この作品に登場し、さまざまな考えや思いを語る人たちの声が、カメラの後ろで自己を語ることを禁欲し、「無私」に徹してひたすら記録を続ける一人の映像作家の顔を、逆説的に描き出している。

 岡村ドキュメンタリーのファンであれば、MST・土地なし農民運動やブラジル奥地の貧しい子どもたち、日本人移民の植物学者の旅を記録した過去の作品を連想し、『リオ フクシマ 2』に、岡村さんのこれまでの歩みや世界観が見事に凝縮されているとも感じるだろう。

 小説家の星野智幸さんが、ご自身のブログでこの点をいち早く指摘している。

 星野智幸 言ってしまえばよかったのに日記

 岡村淳さん新作『リオ フクシマ2』レビュー 
 http://hoshinot.asablo.jp/blog/2018/04/14/8826539

 

 『リオ フクシマ 2』では、岡村さんはピープルズサミット終了後、坂田さん一行を国立公園の森へと案内する。美しいラストシーンだ。緑したたる木々に囲まれたのぼり坂を、岡村さんはカメラを構えて後ろ向きに歩きながら、道端の緑に触れ、滝の水場で遊ぶ坂田さんたちの姿を記録する。

 坂田さんは道中であいかわらず国内外での運動について語り、環境問題を語るのだが、主義主張の殻が破れて言葉がどんどんやわらかくなり、生き生きとしたものに生まれ変わる様に息を飲んだ。

 福島原発事故とその被害について思うところを語り続けながら、彼女は最後に「辛いんです」と漏らしていた。

 時と場合によっては「偽善」とも聞こえかねない言葉が、文字通りの純粋な意味として私のもとに届けられる。そしてここでようやく、坂田さんもまた、無私の心に突き動かされて自分ではない誰かのために生きる人だったことに思い当たるのだ。

 ブラジルの地で出会った坂田さんと岡村さん。ひとりの無私の声を、別のひとりの無私の耳が、沈黙のかたわらにある静けさの中で聞き遂げる。それは、野鳥のさえずりとせせらぎが聞こえるリオの亜熱帯の森で、ことばが、ことば本来のはじまりの意味を回復する奇跡をとらえた瞬間だった。

 「辛いんです」という岡村さんが聞き遂げたことばを、私もまた「私」を脱ぎ捨ててそのまま受け止めたい。そこに、今という時代において信じるに値する意味があり、希望があった。

 

赦しのドキュメンタリー 岡村淳『ばら ばら の ゆめ』

 

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http://www.minatonohito.jp/products/137_01.html

 

 昨晩(2018年2月18日)、西荻窪のAPARECIDAでブラジルの記録映像作家、岡村淳さんのライブ上映会に参加し、ドキュメンタリー作品『ばら ばら の ゆめ』を鑑賞した。今も胸騒ぎがしている。ファースト・インプレッションを記しておきたい。

 本作の主人公は、神奈川のブラジル人学校でボランティアで音楽を教える木村浩介さん、そして歌手になりたい夢を持つ10代の在日ブラジル人姉妹。ギターを弾く木村さんが彼女らのためにオリジナルの楽曲を作る。Duas Rosas、2本のバラ。この曲がとてもいい。『ばら ばら の ゆめ』は、この3人が海辺の音楽祭の出場に向けてレッスンを行う一夏の記録だ。

 途中、木村さんがアマチュア楽家として夢を託した姉妹の家族が、ブラジルへ帰国することが判明する。そして泣き出さんばかりに動揺を隠さない木村さんのナイーブな姿を、岡村さんのカメラは静かに見守り続ける。姉妹が10代の少女らしく前向きに夢や悩みを語るかたわらで、別れの感情を無防備と言えるぐらい純粋に受け止め、苦悶する木村さんの思いの深さに胸を打たれる。

 人はこんなにも、出会いの結末を悲しむことができるのか、と。

 カメラは被写体となる人間に沈黙を強制し、戸惑う表情だけを興味本位で切り取ることもある。相手の魂を撃ち抜く武器にもなりうる。

 しかし岡村さんのドキュメンタリーでは、向けられるカメラに促されるように、主人公が本当に大切なことをさりげなく語り出すシーンがよく見られる。我が身にカメラを向けられることを想像すればすぐにわかるが、普通は怖気づいたり舞い上がったりして、人はあのようには自然体で語れない。

 だが岡村作品にあっては、傷を含めた内面の奥深くにしまい込まれた精神性が、語り手の飾らない表情と言葉を借りて陶然と語り出すことがある。薄明の室内で独白する木村さんの姿が、別の岡村作品『あもーる あもれいら 第二部』の主人公、ブラジル奥地で貧しい家庭の子供たちを支える宇田シスターが長崎での被爆体験を語り出す祈りの姿に重なった。

 問いかけ追求するドキュメンタリーではなく、相手を受け入れ赦(ゆる)すドキュメンタリーというあり方が、岡村作品を他のいかなる表現にも比べられない特別なものにしている。

 岡村さんのドキュメンタリーを衒学的に解釈するのは野暮だが、私はこの作品を観終わってサン=テグジュペリ星の王子さま』を思わないわけにはいかなかった。ふるさとの星の一本の美しいバラと別れ、星々や地球をさまよう王子さま。旅の途中で、別れることの意味を少しずつ理解していく王子さまに、賢者の狐が語りかける。

きみがバラのために費やした時間が、きみのバラをかけがえのないものにしているんだ。

 『星の王子さま』の物語の悲しい結末も含めて、王子さまのさすらいと木村さんの生き様がどうしても二重写しになってしまう。木村さんが2本のバラのために費やしたささやかな音楽の時間が、さびしさを抱える少女たちの一夏の輝きをかけがえのないものにしている。

 2度と取り戻せない一期一会のこの出会いを、忘れないでほしい。何度でも思い出してほしい。『ばら ばら の ゆめ』という作品が、そう語っているように私は思った。

 

 

 作品の詳細に関しては岡村淳さんのウェブサイトをご覧ください。

 ブラジルに渡ったドキュメンタリー屋さん
 岡村淳のオフレコ日記
 http://www.100nen.com.br/ja/okajun/