ASANOT BLOG / 淺野卓夫の日誌

編集者。本、旅、考える時間。

木村友祐の小説『イサの氾濫』ほか

 

『イサの氾濫』

 

 木村友祐の小説『イサの氾濫』(未來社、2016)を読んだ。期待を裏切らない、素晴らしい小説だった。私自身が生きる今という時代に必要な文学の力を感動とともに噛み締めている。

 歴史が実証するものに学び、それを未来に伝えることは、今という時代を生きる者の責任だろう。しかし文字に記録される歴史の外には、文字に記録されなかった声なき声の広大な世界がある。それをなかったことにすることもできない。

 生きることの困難に直面し、悩み苦しみ、思いを深め、自分のことばで必死に考え抜いたことを、誰かに知ってほしいと願いながら歴史の舞台からはかなく消えた無数の声たち。そして声にすらならない叫び、歯ぎしり、ため息。

 歴史学とは別の倫理に突き動かされる「想像」の力によって、これら声なき声にじっと耳を傾け、沈黙に新しい声を与えるのが文学や芸術の一つの役割だった。

 木村友祐の小説『イサの氾濫』は、そのような意味での正真正銘の文学だ。

 東日本大震災後の青森・八戸が物語の舞台で、東京から帰郷した小説家の男が語り手。親族の変わり者で、生きづらさを抱えたまま放蕩を繰り返し、傷害罪など前科を重ねた行方知れずの叔父・イサの記憶を男がたずねる。
この主人公の男もまた、東京での仕事や人間関係が思い通りにならず、ある種の生きづらさを抱えていた。

 故郷・八戸での同窓会で直面した失意の出来事をきっかけに男の記憶の蓋が開かれ、忘却という名の暴力に抗うイサの叫びが、東北のまつろわぬものたちの叫びが、堰を切ったように意識の内側からあふれ出す…。

 『イサの氾濫』を読み終えて、いまも心が震え続けている。

 吹く風に身をさらすことで、はじめて自分の存在を強く感じることがあるだろう。この小説から、まぎれもない東北の風が吹いてきた。それは荒ぶるイサの怒声のように、匂いがあり湿り気を帯びた重みのある風で、激しい音を立ててかたわらを吹き抜けていく。


 ずしんと体に響く物語の風の重みに耐えることで、ようやく気づいた震災後を生きる私なりのリアリティがあった。長い間、どこかでそれを語ることを避けてきた。しかしこの小説を読むことで自分自身の中にある暗い穴、その奥底で押し黙っていた声の存在を直視する勇気をもらった気がする。

 木村友祐の小説『イサの氾濫』は、原爆投下直後の広島の惨状を描き切った原民喜「鎮魂歌」のように「失われゆく声の復活」に挑む強い意志に貫かれた文学だ。と同時にそこには、生きることのさびしさに裏打ちされたやさしさも漂っていて胸を打つ。

 一人でも多くの人に読んでほしいと思う。

 表題作のほか「埋み火」という作品もいい。版元の未來社は小説を多く出している出版社ではない。文芸誌に掲載されたまま、埋もれかけていた表題の作品が、文芸批評家や編集者など理解ある人の縁がつながって書物として生まれ変わり、未來社から刊行されたという。このような出版の経緯も、興味深い。


 

『幸福な水夫』

 

 同じ出版社から新たに刊行された木村友祐の最新作『幸福な水夫』(未來社、2017)もつづけて読んだ。内容はもちろん、ブックデザインも秀逸だ。半身不随の老父と息子たちが下北半島を旅するロードムービー風の小説「幸福な水夫」が、とりわけ心に残る。

 所収のエッセイで、「震災前と震災後では、ぼくの書き方はガラリと変わってしまった」と作家は書いている。私自身の読み方も、ガラリと変わってしまったのだろう。文学を読み、今も持続する心の震えを確かめることで、はじめて開かれる目や耳がある。 

 『イサの氾濫』と同じようにこの本が、そのことを気づかせてくれた。

 

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『野良ビトたちの燃え上がる肖像』

 

 そして、小説『野良ビトたちの燃え上がる肖像』(新潮社、2016)。東京五輪を思わせるメガ・スポーツイベントを控える近未来の日本、河川敷に暮らす野宿者や猫たちの社会を舞台にした長編だ。

 これは、「小説家の使命とは何か」を深く考えさせられる驚くべき傑作だった。

 空き缶を集めて換金し廃材を使って自作した小屋で生活する野宿者・柳さんの取材をしていた雑誌記者だったのだが、失職して同じ野宿者になった木下。小説の一登場人物であるこの木下が、物語の途中で「ぼく」として登場する。唐突な語りの人称の変化に驚いたが、決して奇をてらったものではなく、最後の場面を読めば、絶望を希望に反転させる必然の方法だと深く納得する。

 現実を唯一の現実として捏造しようとする国家や資本の力がある。その力にねじ伏せられた市民社会が見て見ぬふりをし、なかったことにしようとする「もう一つの現実」が河川敷にはある。

 いつからか、「野良ビト(ホームレス)に缶を与えないでください」という看板が対岸の住宅街に立てられるようになる。野宿者の目の前にまで押し寄せる不穏な力によって「もう一つの現実」が完全に浄化されようとする。

 その前に、社会のフレームの外に排除された声なき声、目に見えない小さな存在、ありえたかもしれない人生を想像の力によって収集すること。

 そしてフィクションの形式で語ることを通じて、「もう一つの現実」を生きられた世界として再創造すること。

 「ここで見たこと、いつか書いてくれよ」と託された木下=ぼくは、社会に蔓延する排除と分断の力に抗して記憶の人になる。そして、彼は小説を書きはじめる。柳さん、リハド、三村親子とサクラのことを。暴漢によって襲撃され火を放たれた河川敷の風景の中で、生き延びるために疾走するかれらの最後の姿を。

 この長編小説から問いかけられる何かについて、私はさらに長い人生の時間をかけて考え続けることになるだろう。

 

 『聖地Cs』(新潮社、2014)を含め、数週間のあいだに小説家・木村友祐の近作を一気にまとめ読みした。もともとは、葉山のbookshop kasper で『イサの氾濫』をすすめられて読んだのがきっかけだった。一生ものの真の読書に値する文学との出会いは、こんな風にして小さな本屋さんからはじまる。