ASANOT BLOG / 淺野卓夫の日誌

編集者。本、旅、考える時間。

植本一子の3冊の本

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 「コインランドリーに行き、一人になったとき、泣きそうになった。本当に、これからどうなるのだろう。乾燥機にかけているあいだにスーパーへ行くが、何を買えばいいのかがよくわからない。帰り道に銀杏の匂いを感じて、また辛くなった。この秋と去年の秋は同じはずなのに、全然違う。見るもの聞くもの、全部違う。どこかでずっと同じだと思っていた。毎年同じように暮らすのだと思っていた」

−−植本一子『家族最後の日』

 

1

 作家や文筆家と呼ばれるのが苦手だそうだが、私にとっては書くべくして書いている「作家」でしかないのが、植本一子さんだ。写真家でもある彼女の『家族最後の日』(太田出版、2017)という真っ赤な本の中に、こんな記述がある。

『かなわない』を読んで『人間の大地』を思い出した、という話をされ、ずっと読もうと思っていたもの。淺野さんのあのときの話がとてもよかったのだが、不思議とよかったという輪郭しか思い出せない。

 二人でおしゃべりした「あのときの話」がよかったかどうかはわからないが、そこで植本さんに伝えたかったことを2年後のいま、もう一度振り返って考えてみたい。

 

2

 この機会に、『かなわない』(タバブックス、2016)、『家族最後の日』、『降伏の記録』(河出書房新社、2017)という植本一子さんの3部作をあらためて読み直してみた。

私が撮った写真が遺影になったことが2度ある。

 『かなわない』の巻頭に収録された作品「遺影」は、何度読んでも出だしから震えるものを感じる。忘れがたい魅力がある。

 植本さんの作品については、「写真家・植本一子が書かずにはいられなかった、結婚、家族、母、生きづらさ、愛。すべての期待を裏切る一大叙情詩」、「母との絶縁、義弟の自殺、夫の癌―写真家・植本一子が生きた、懸命な日常の記録」などと出版社によって紹介されている。

 一種の日記文学であるどの著作でも、語り手である植本さん、すなわち「私」は感情の暴風雨に巻き込まれていて、立っていられないほど揺れる人間関係の網目の上で身動きもできない。

 しかしここで、不思議なことが起こっている。

 遭難状態にある「私」の人生体験から生み出された言葉は、「私だけを見て」という自己閉塞におちいることなく、他の誰かの苦しみや悲しみに開かれているのだ。

 

3

 私がはじめて『かなわない』を読んでいる時、ちょうど作家サン=テグジュペリの散文作品『人間の大地』がそばにあった。

 飛行機乗りでもある作家はサハラ砂漠に墜落して不時着し、火を焚き何日も渇きに耐え、死に直面しながらなおこう叫ぶのだった。少し長いが引用する。

そうだ、そうなのだ。耐え難いのはじつはこれだ。待っていてくれる、あの数々の目が見えるたび、ぼくは火傷のような痛さを感じる。すぐさま起き上がってまっしぐらに前方へ走りだしたい衝動に駆られる。彼方(むこう)で人々が助けてくれと叫んでいるのだ、人々が難破しかけているのだ。

 この多くの難破を前にして、ぼくは腕をこまねいてはいられない! 沈黙の一秒一秒が、ぼくの愛する人々を、少しずつ虐殺してゆく。はげしい憤怒が、ぼくの中に動き出す、何だというので、沈みかけている人々を助けに、まにあううちに駆けつける邪魔をするさまざまの鎖が、こうまで多くあるのか? なぜぼくらの焚火が、ぼくらの叫びを、世界の果てまで伝えてくれないのか? 我慢しろ……ぼくらが駆けつけてやる!……ぼくらのほうから駆けつけてやる! ぼくらこそは救援隊だ! 

 

4

 『人間の大地』のこの場面を読んで、まっさきに救われなければならない瀕死の遭難者が、自分ではない誰かが世界のどこかで生き延びることを必死に願いつづけるという「途方もなさ」に驚いた記憶があった。

 文学にはこういう人間の真実を表現できる力があるのか、と。

 そして植本さんの作品を読んでいる間、同じタイプの「途方もなさ」が、波のようにこちらへ押し寄せるのを感じたのだった。

 それは、彼女にしか書けない文体の力によるものだろう。手放したくても簡単には捨てることも失うこともできない人間関係を、書くことで必死に生きなおす嘘のない言葉が、読者の人生に応えるのだ。

 共感も共苦もしがたい他ならぬ「私」のつぶやきが、遠く離れた困難の渦中にある生きることの切実さにまっすぐ届く。目の前にある世界が真っ暗な闇にしか感じられないほど、孤独や絶望に押しつぶされている人の行方を照らす灯りになる。

 植本さんの書く作品には、そんな不思議な言葉の力がある。

 

5

 一番新しい作品『降伏の記録』で、装丁家鈴木成一さんが失意の植本さんを励ます場面があるが、私も一字一句、同じことを思う。

 とにかく植本は、書いて書いて書きまくれ。それに救われている人が沢山いる。迷惑かけて生きていけ。

 上から目線で恐縮だが、植本さんの作品を読んでいて、とにかく文章がうまいと感心するのだ。例えば、ふいに訪れる凪のような感慨を記す、『降伏の記録』のこんな文章。

 言葉が通じなくても、いつも静かに見守ってくれていた自然。それに昨日気づくことができて良かった。あの田舎の風も、きっとこの東京に吹いている。死んでしまった人たちも、目に見えないだけで、きっといつまでもそばにいる。見えないけれどそこにある、風と同じようなものだろう。

 あるいは、3部作ではないが、ECDとの共著『ホームシック』(ちくま文庫、2017)所収の「ビギナーズラック」に、私がなんども読み返す大好きな文章がある。

タクシーが角を曲がって、とうとう姿が見えなくなった。切り離されてしまった先生と私。そして私と娘。娘の小さな手を握って、タクシーに乗っていた。まぶしい冬の光の中、大きな一本道を走る。十分も走ればいつもの家に着く。でも私は、もっと違う場所へ行くのだと思った。想像もできない場所へ。

 植本さんの作品の随所で、「うまい」という以上の何かが不思議とクールな観察者的文体を形作っていて、それが火傷しそうに熱い内容を鎮めている。個人的にはそこに強く惹かれる。これは、写真家=見る人に独特の文体なのだろうか。

 

6

 『かなわない』をはじめとする植本さんの作品は、痛々しい私情をさらけ出す自己愛的な身辺雑記とはまったく違う。

 そもそも彼女が書いているのは「私のこと」というよりも「人のこと」だ。ひとたびページを開けば、そこに記されるのは「重要な他者」たちの列伝だということはすぐにわかる(「重要な他者」というのは『降伏の記録』の鍵言葉)。

 母のこと、義弟のこと、夫のこと。娘たちのこと、友人のこと、仕事仲間のこと。もう一度会いたい人、二度と会いたくない人。かれらの面影と対話を続け、省察する。 

 「私」は家事をしても買い物をしても何事にもよく手を動かす人で、摘んだ途端にいのちが弱くなる野花を枯れないうちに一輪一輪本に挟んで押し花にするような、気になるものごとにはこだわらずにはいられない几帳面さがある。

 作品の中で右往左往する植本さんの姿を見ていると、まるで地理測量士博物学者のように、家族とその周辺というフィールド、そして他者と自分との間に引かれた目に見えないボーダー(国境線)を丹念に調査しているような印象を受けるのだ。

 「私」の心に刻まれた引っ掻き傷でもあるそれら複数のボーダーの長さや深度、交わりの具合を淡々と測りながら、向こう側にいる人との関係の意味を何度も問い直し、お互いに壁を築いたり壊したりし、境界を越え、越えられることで変化する感情生活の断片を一つ一つ記録していく。

 

7

 先ほど書いたことを繰り返すが、手放したくても簡単には捨てることも失うこともできない人間関係を、書くことで必死に生きなおす嘘のない言葉が、読者の人生に応えるのだろう。

 その言葉の力によって、誰かに理解される必要もない個人的な日常が、誰にとっても他人事ではない普遍的な世界に反転する。『かなわない』『家族最後の日』『降伏の記録』の3部作を、私は掛け値無しに日本語で書かれた世界文学だと考えている。

 植本さんの作品を読むことで、私はいま、私自身の人間関係を必死に生きなおし、私自身の心に刻まれたボーダーの手前で遠い声に耳をすませている。

  「私」というボーダーランズの風景のなかで、誰のものともわからないその声に思いがけず揺さぶられることで記憶の蓋が開かれ、普段は見ないことにしている感情の所在にふと気づかされる。

 そして、あまりにも当たり前すぎて忘れてしまっている、誰かとともに生きてきたこと、誰かとともに生きていくことの確かな実感を、ある痛みとともに思い出すのだ。

 

 たった一人で植本さんの本を読む私もまた、彼女の言葉に救われている。