ASANOT BLOG / 淺野卓夫の日誌

編集者。本、旅、考える時間。

単独性にたった連帯をうながす「物語」とは 星野智幸の小説『焔』

 

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http://www.shinchosha.co.jp/book/437204/

 

 星野智幸の小説『焔』を読了。2018年1月末の刊行。ちらちらと目にする口コミや予感から、読んだらハマって抜け出せなくなるのではないかと恐れて今日まで禁欲してきたのだが、近所のK書店でついに手を出してしまった。

 案の定、ハマってしまった。一度読みはじめれば、堰を切ったように想像力の奔流が止まらなくなり、流れに乗って心はさらわれるしかない。

 最高にスリリングで、切実な問いを突きつけるオムニバス小説。戦争と異常気象が日常化し、弱肉強食の経済原理が人心を荒廃させる近未来のこの国で、最後の生き残りたちが焚火を囲んで語る9つの奇妙な変身譚から構成されている。 

 人々が互いに敵か友かを監視し合い、つねに何者かであることを洗脳され強制される社会から脱出するためには、「自分」でない何ものかに「移し身」するしかない。そうでなければ自分が自分であることを自ら確かめ、誰かに伝えることすらできないという逆説。そんな絶望的なエクソダスをめぐる語りが次から次へと横滑りし、抑圧と自由がせめぎ合う物語群の展開に息を呑む。

 語り手はそれぞれの変身譚を語り終えると暗闇に消えてゆき、世界から一人ずつ人間がいなくなる。理由の判然としない絶滅の気配が、ひたひたと押し迫る。あの語り手たちはいったいどこに旅立ってしまったのか、やがてなくなろうとしているこの焚火が燃える現実は何なのか。

 人間が貨幣になり自らを売買するディストピアを語る「人間バンク」、介護疲れの家庭から老人を格安で引き取る謎の団体をめぐる「何が俺をそうさせたか」。こうした物語に示される絶望を目の当たりにすると、これは他人事ではなく私たちが生きる社会そのものではないか、と呪いにかけられたような重苦しい気持ちになる。

 しかし最後、こちらの常識的な理解が炸裂する解放感がもたらされる。ラストの「世界大相撲共和国杯」を読んで、ぜひそれを体験してほしい。未来の「角力」界では、力士も部屋も協会も今以上に多国籍化し、男もおかみさんになるなどジェンダーの縛りがなくなり、国技館の館内にはエスニック料理の露店や古本屋などが無秩序に並んでいて痛快だ。

 

 この小説を読み終えて考えたのは、感情の血糖値を上げて集団的な熱狂へ誘う共同体のための物語(私はそういうのが大嫌い)ではない、それぞれの単独性にたった連帯をうながす「物語」とは何かということ。

 共同体が押しつける唯一の物語に服従し、服従したものどうしが内輪で群れることの息苦しさに対して、「共同体の外部へ越境して何かと何かの間で生きなさい」と呼びかけて事足れりとするのではない道。

 小説の冒頭で語られる「私たちは、物語に失敗し続けてきた」という自覚の上でなお、集団の大きな声に代表されないほかならぬ自分の物語を語り手と聞き手が分かち合い、そのことで一人と一人が熱狂とは別の回路でつながり合う共存関係はどうすれば可能なのか。

 読者であり聞き手である私は今、心の中で小説の舞台である草原のはるかな風景を見渡しながら、答えではなく、その問いの入り口に立ち尽くしている。

 当たり前のことだが、分かち合われる物語のベースにあるのは「言葉」だ。信じるに値するその意味だ。政治権力が率先して言葉に対する私たちの信用を暴落させるこの国の現実を思うとき、「世界大相撲共和国杯」の主人公・ハシブが吐露するつぶやきが忘れられない。

ぼくは一瞬、よく理解のできない絶望にかられた。無数の物語の集積が、ぼく一人にのしかかってくる。すべての物語を、ぼくは知り尽くすこともできない、受け止めることもできない。

 国技館の「ちゃんこ市場」には、トルタ売りのメキシコのお兄さんがいて、カフカース地方のオセチアから逃れた亡命親子がいる。「それぞれ重く逃れようのない物語を抱えて」生きる無数の他者たちが交錯する風景に、ハシブは打ちのめされ、口を閉ざす。だが、この「よく理解のできない絶望」を裏打ちする、世界の圧倒的な多様性に対する彼の謙虚さこそが言葉の、物語の、文学の信用回復のための鍵ではないだろうか。

 

 書物としての小説『焔』を飾るのは、横山雄の装画・題字を箔押ししたインパクトのある装幀。それは、燠火のようなゆらめく輝きを放つ。カバーを外した表紙、薄く文字がうかびあがるような扉、本文のレイアウトなど、随所に小説の世界観に奥行きを与える工夫があり、ブックデザインを眺めているだけで陶酔する。

 手元に置いておきたい、美しい本だ。