ASANOT BLOG / アサノタカオの日誌

編集者。本、旅、考える時間。

木村友祐「生きものとして狂うこと 震災後七年の個人的な報告」ほか

 

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http://www.shinchosha.co.jp/shincho/

 

 「新潮」8月号に掲載。作家・木村友祐の「生きものとして狂うこと 震災後七年の個人的な報告」、これは一人でも多くの人に読んでほしい名エッセイだ。

 東日本大震災後の「東北」におぼえる悔しさ、悲しさを抜きにして文学を行うことができなくなったひとりの人間。青森生まれのひとりの、一匹の生きものとしての作家。振り絞るように吐き出されたその渾身の証言として読み、感動に打ち震えている。6月下旬にパリで開催された講演録だ。

 政治的・社会的な問いかけに対する日本の文学やカルチャーシーンの拒絶反応に疑問を呈し、木村さんは小説家として「たとえ無理だとわかっていても、乗り物が壊れても、ナマの現実という「外部」に出ていかなきゃならないのではないか」と語る。

 「苦しんでいる人を前にオロオロして、一緒に身悶えするのが文学じゃないのか」と。

 現実という「外部」に出て証言の声を集め、つたえるのがジャーナリズムやアカデミズムの仕事なら、そこで声にならない沈黙に寄り添うのが文学の仕事だろう。

 言葉を押し殺さなければ一日たりとも生きることはできない人々の声にならない声、その「身悶え」に共感共苦し、想像力を介して個人の物語として再生し、普遍化するのが小説や詩など文学の一つの使命だ。

 木村友祐の震災後文学の傑作「イサの氾濫」を、私はまさしくそのような作品として読んだ。登場人物たちの喪失の痛み、叫びを想像的に生き直すことで、自分自身が震災後に心の底に押し殺してきた何かを直視する勇気をもらった。

 

asanotakao.hatenablog.com

 

 「イサの氾濫」の初出は2011年12月。震災の起きた年に震災を小説で書いたことに対して、「「遅さ」の芸術である小説表現に、「速さ」を持ち込んでしまった(のだろうか)」と木村さんは自問自答する。

 そんなことは決してない、と読者としての私は考えている。速報性・即応性がこの作品の本質ではなかった。「イサの氾濫」や「聖地Cs」など震災を主題にした木村さんの小説には、忘却を促す時間の腐食作用に耐えて、読者に記憶の蓋をひらくことを粘り強く促す力がある。

 「小説がぶっ壊れるならそれでもいい」と作家・木村友祐は言う。

ぼくが政治や社会という「大枠」の構造について、そのほころびの弊害を糾弾するときというのは、個人の、生きものの立場から声を発している。

 変えられない世の中に対して最終的にはシニシズムを決め込むのがお約束のようになっている賢しらな言論からみれば、「糾弾する」などと吠えるのは、まるでドン・キホーテ的で反時代的な文学観かもしれない。でも、私はこの立場を支持する。

 テレビをみれば、一目瞭然だ。権力もマスコミの言語もどうしようもなく狂っているのがこの国の現実なら、不穏な文学を読みつづけることで自分を革命し、ことばを革命し、世論や良識に叛乱し、一匹のいのちとして狂い返してやって何が悪い。

 

 

 

【付記】

 『新潮45』8月号に掲載された杉田水脈「『LGBT』支援の度がすぎる」における差別発言に関して編集部がコメントした。

個別の記事に関して編集部の見解を示すことは差し控えさせて頂きます。
https://www.asahi.com/articles/ASL7S5T0XL7SUCVL01T.html

 目を疑った。メディアとして無責任だと思う。

 私はこれまで文芸誌『新潮』や総合誌新潮45』を、読みたい記事があれば購入し、新潮社の単行本や文庫本、海外文学のシリーズ「新潮クレスト・ブックス」を愛読してきた。

 しかし、以上が編集部の所属する出版社としての見解でもあるなら、私は今後、新潮社の出版物は購入しない。ウェブサイトを確認したが、2018年7月29日現在、新潮社は上記差別発言を否定するコメントを出していないと思う。もし出しているなら教えて欲しい。

 最近、私はSNS上で、ある書店で欲しかった本を見つけたのだが、ヘイト本が面陳されている棚を見つけてその本を買うのをやめた、という内容の発言をした。

 デマや不正確な情報を元に根拠なく隣国を蔑み、社会的な少数者を攻撃する。偏向した理屈で、弱者切り捨てを煽動する。あからさまな差別主義の主張もちろん、それを裏打ちする歴史修正主義の主張も含め、ヘイト本は言論ではなく、端的に「暴力」だ。基本的人権や知る権利の精神を損なうものでもある。

 それを知りながら新刊話題書棚などで積極的に展開する書店で、私は本を買わない。またヘイト本を否定しない出版社の本も買わない。そのような本屋と版元は「言論の自由」を口実に差別と暴力を容認することで、人格殺し・記憶殺しを行い、社会を破壊している。

 そんなこと言っても出版社や書店の売上が、顧客の多様なニーズが、と賢しらな意見をされても私はへこたれない。安全地帯にいるからそんなことを言える。私も安全地帯にいる一人ではある。でも、そこからだって、人が一方的に暴力を振るわれ、心が傷つけられる状況を目撃することはできる。見ないふりはできない。

 ヘイト本を積極的に展開しない書店を知っているし、SNSを通じて良いお店の情報を教えていただいた。ヘイト本を発信しない出版社だってたくさんある。

 安心して楽しいなと思える本屋さんで本を買い、信用できる出版社から出ている好きな著者の本を読む。私はそうする。そしてこの国で生きることの矛盾の渦中で、一体どうすればいいのか悩み、考えたい。