ASANOT BLOG

本、ローカル、考える時間。編集者・淺野卓夫(あさのたかお)の日記

本当の自由とは何か

 

山と渓谷』2016年10月号に寄稿した書評「今月の一冊・『ヘンリー・ソロー 野生の学舎』今福龍太著」を再掲載します。

 

森に吹く「自由」の風が、不思議な親しさをもって、読書に集中する額をなでていく。本を介して野の道を逍遥する者の心に、ハックルベリーの実の甘酸っぱさが、スカーレットオークの美しい葉の形が、マガモが沼地を飛び立つ音が、何かを語りかけてくる。  

森の主はヘンリー・デイヴィッド・ソロー。一九世紀アメリカ東部出身の思想家。コンコードの町外れにあるウォールデン湖畔に丸太小屋を建て、二年の自給自足の生活を送った。その暮らしの記録と省察をまとめた名著『ウォールデン 森の生活』で知られる。  

『ヘンリー・ソロー 野生の学舎』の著者は、『ジェロニモたちの方舟』(岩波書店)等で独創的なアメリカ論を展開する批評家・人類学者の今福龍太。本書は、そんな著者が『ウォールデン』をはじめとするソローの著作と膨大な日記を丹念に読み解き、その思想と人生に迫る一二篇のエッセイを集めた評伝である。

なぜいま、ソローを読み返す必要があるのか。著者は、このような言葉で読者を知の森へ誘う。

鬱蒼たる樹林のなかを遊歩しながらふと立ちどまり、静寂のなかで足下のかすかな流れの音に気づいたら、苔むした地面に細々と湧き出る清冽な水を掌にすくい取り、一口味わってみる……ソローの著作を読むことは、知性の森を逍遥しながら、この清冽で慎ましい水を飲むことに等しい 。 

森のなかで湧き水を手にすくって飲むように、「経験」から教えを授かろうとすること。「私は別種の学校において自分の教育を成し遂げたいのです」というソローの言葉を引きながら、著者は、慎ましい意志をもって「自然のなかにおかれた自らの真実」を学び直そうとする者のための場を、「野生の学舎」と名づける。  

俗世間からの隠遁をすすめるわけではない。ソローが森を歩くのは、自然観察と哲学的内省によって人間社会を問い直すためだった、と著者は説く。  

急激な産業化の時代を背景にアメリカ国家が行う非道な戦争や奴隷制を、ソローは厳しく批判した。だが知識人のサロンや市民運動に群がることなく、霧の漂う森をひたすら歩いた。そして文明の危機にあって、人間にとって本当の自由とは何かを考えるための手がかりを、たった一人で探しつづけた。野鳥の尾羽を拾い、先住民の矢尻を掘り出し、切り株の年輪を指でなぞって数えながら。

ソローは言う。「私は豆畑を抜け出すようにして政治の世界を抜け出すと、森のなかに入ってゆく」  

湖畔の森におけるソローの繊細な思考の道筋を、著者はこう敷衍する。

ハックルベリーを求めて歩き出すこと。それは、政治を徹底的に相対化し、無化し、そのうえでふたたび人間と社会の関係について原点から思考するための、反時代的にして、もっともいま求められる行為にほかならない。  

ソローの野生と自由の哲学を現代に受け継ごうとする著者の強い意志、そして森を歩くその孤独の喜びを分かちあおうという知的な共感——本書全体を流れるこの深い「親しさ」に、感動を覚える。

ソロー独自の自然の本性に基づく憲法観を論じた章「より高次の法」は、ソローがそうであるように決然としている。哲学者ブロンソン・オルコットとの静かな友情を語る章「たったひとりの共同体」は、彼らがそうであったように高潔で美しい。

本書は、野生の学舎の最前列で学び、ヘンリー・ソローの精神の兄弟になった著者からの、すばらしい知と良心の贈り物である。 

さあ、ふさわしい時がやってきた。季節の変り目、森の木々のはざまを俊敏に動き回る霧を追いかけて、私たちもソローの精神とともに逍遥の径に踏み出そう。