ASANOT BLOG / 淺野卓夫の日誌

編集者。本、旅、考える時間。

管啓次郎『本は読めないものだから心配するな』

 

『文藝』2010年春号に寄稿した書評を再掲載します。

f:id:asanotakao:20180503220857j:plain

http://sayusha.com/catalog/books/longseller/pisbn9784903500591c0090

 

 奄美の島への旅から戻ると、冬の自宅でこの本の読書がまっていた。波と南風、光と夜の鳥の声の鮮烈な記憶の渦巻く頭で、文字を追うのはまだ難しい。けれどソフトカバーの本を丸めたり開いたりしてからページをめくると、不思議な懐かしさがこみあげてくる。

 旅と読書を主題とするこのエッセイ集のあちこちに登場する「島」の名が、そんな感情をかき立てる一つの原因だろうか。例えば山口県大島、ハワイ、カリブ海マルチニック、カナリア諸島アイルランドカーボ・ベルデ。あるいは各エッセイの文頭にゴチック体で記されたタイトル「潮を打つように本を読みたい」「珊瑚礁とフィクション」「ラグーンと干潟」……。

 「ラグーンと干潟」、こういう即物的な標識が導く文の道なら、島帰りの心にもなじむ。アオテアロアニュージーランドの女性作家、ジャネット・フレイム。陸と海のはざま、潮が引けば、死の匂いのなかで干潟の水溜まりが人と事物の姿をひとしく映し出す。そんな「世界の中間地帯」への透明なまなざしが、作家の現実の生を狂気の淵から救済した。強く胸を打つ話だ。

 本のかたちにも島を感じる。カバーを外した表紙の色は、南島の畠の赤土を思わせる。見返しの紙の緑と青は、海の色。そしてこの本のもっとも際立つ形態的な特徴が、ほぼすべての奇数ページの左上に一句ずつ記された、詩的なことばの断片群だ。

 通常この部分には「柱」と呼ばれる、読者が今どのパートを読んでいるかを示す章題などが付される。ところがこの「詩的なことばの断片」は、読書という歩行の現在地を示さない。「風が吹く、ゆえに、われあり」とか「背後には何もない。何もない」とか「地点には記憶がある」とか。章題ではない、謎めいたメッセージ。見開きページの文章から即興的に選び出され、テクストの秩序の重力圏から離脱して浮遊するそれを一体何と呼べばいいのか? 

 「マブリ(=蝶/魂)」という島ことばが閃いた。奄美では、ふわふわ舞う蝶はあの世とこの世の境界に現れる霊魂とされる。集落の水場には、枝から無数の気根を垂らす榕樹(がじゅまる)の森があり、高いところを美しく巨大な翅を広げるオオゴマダラがゆらりゆらり。

 風景をタテに刻む幹や気根は、本のページになぞらえれば行の連なり。そして行の連なりと天のはざまの余白=世界の中間地帯にいるのが「マブリ」としてのことば。本書の「柱」は、先行する読者が残した深遠な書き込みのようにも読めるし、読者がそれぞれのことばの魂を文の森から探すようにうながす誘い声とも読める。

 そう、どの読書からも飛び立つ一つか二つのマブリは、書かれた内容の固有の文脈や前提となる知識をこえる喜ばしい詩の贈物として、忘れっぽい心に迷い込み、人生の歩みを思いがけない方向に曲げる。

本との接合面に生じた一回きりのよろこびを、これからやってくる未来の別のよろこび(読書によるものとはかぎらない、生のいろいろな局面でのよろこび)へとつなげていくこと。

 最後に、「読書の目的は内容の記憶ではない」と説く著者は、この「つなげ」の世界を、亡き友から贈られたことばを借りて「本の島々」と呼ぶ。はじめに感じた懐かしさの本当の原因は、読むことの汀で夢見られたこの素晴らしい眺望にあった。