ASANOT BLOG / アサノタカオの日誌

編集者。本、旅、考える時間。

岡村淳のドキュメンタリー『リオ フクシマ 2』と山尾三省の詩

 

 ブラジルの記録映像作家、岡村淳さんの最新作『リオ フクシマ 2』の上映会に参加した。期待をはるかに上回る、素晴らしい作品だった。そして予想に反して、鑑賞後にこれほど静かな気持ちになれる作品だと思わなかった。

 映像作品から受け取ったメッセージを感動とともに反芻しながら、たまたま詩人・山尾三省の本を読んでいると、自分の中で岡村さんのドキュメンタリーと強く響き合うものがあった。そこで考えたことを記しておきたい。

 

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 詩を読むとき、私はたいがい「私」という仮面をかぶっている。自分の肉眼では見ることのできないその顔には何と書いてあるのだろう。「批評」だろうか、「思想」だろうか。「歴史」だろうか、「社会」だろうか。顔は、なんとかその意味を理解してやろうと身構えているにちがいない。

 ところが、山尾三省の詩を読むとき、私は「私」を脱ぎ捨てることができる。意味に意味を上塗りするような、解釈の言葉を脱ぎ捨てる。「私」を脱ぎ捨て身軽になって『聖老人』や『びろう葉帽子の下で』といった詩人の書物を訪ねれば、いつもそこに変わらぬ三省の詩という火が焚かれていて、心の底から安心する。

「いろりを焚く」

 

家の中にいろりがあると
 

いつのまにか いろりが家の中心になる
 

いろりの火が燃えていると
 

いつのまにか 家の中に無私の暖かさが広がり
 

自然の暖かさが広がる

 
 屋久島の森のそばで生きて、死んだ詩人が遺したことばだ。山尾三省は、環境問題やアニミズムの思想家でもある。

 三省の詩はほかならぬ三省の詩でありながら、どの作品にも「無私の暖かさ」が広がっている。詩人の「私」ではない、何か大いなるものが、詩人の「私」を通じてうたっている。

 詩のことばを読み、「無私の暖かさ」に心の手をかざしながら、疲弊した言葉の意味がやわらかく回復するのを静かに待つ。家、いろり、いつのまにか、自然。人類が当たり前のように使ってきた言葉に、当たり前のように込められてきたはじまりの意味がふたたび宿るのを、私はひとつひとつ確かめる。

 

 先週末(2018年4月14日)、下高井戸シネマで在ブラジルの記録映像作家、岡村淳さんの最新作『リオ フクシマ 2』を観た。岡村さんのドキュメンタリー作品を鑑賞している間、私は山尾三省の詩に抱くのとまったく同じ「無私の暖かさ」を感じつづけていた。

 2012年、リオデジャネイロで開催された国連の環境会議と並行して、世界中の市民団体が集会やデモを行うピープルズサミットが開催された。主人公は日本から参加したNPOの代表、坂田昌子さん。岡村さんは、ピープルズサミットの会場で福島原発事故生物多様性の問題を訴える彼女たちの団体を追いかけ、撮影を続ける。

 会場の屋外スペースに張られたテントの中で、持続可能な環境について、公正な社会について熱心に語り合う真摯な人びとの姿がそこにある。しかし私が忘れられないのは、岡村さんがこのサミットの渦中から一歩身を引く印象的な場面だ。

 さまざまな主義主張を訴える市民団体による大規模なデモ行進がリオの路上で繰り広げられるかたわらで、岡村さんは「カンデラリア教会虐殺事件」の現場をたった一人で訪れる。

 路上で生活していたストリートチルドレン8名が、貧困層への差別と治安悪化を理由に銃殺された事件。発生から20年以上経ち、いまやほとんど誰も見向きもしない子どもたちが斃れた現場に、カメラを構える岡村さんは追悼の思いを込めて寝そべる。

 「声」を記録する。と同時に「声の圏外」にある沈黙にも反応し、それを記録せずにはいられない岡村ドキュメンタリーの変わらぬ意志に打ちのめされた。

 そして『リオ フクシマ 2』を観終わって、この作品はある意味で岡村さんの自伝ではないか、と私は感じた。

 主人公たちの他に、通りすがりのブラジル人の学生たち、カカオを売る土地なし農民運動のリーダー、リテラトゥーラ・コルデル(紐吊りの文学)という冊子を売る地方の吟遊詩人、国際的に活動するジャーナリスト、弁護士、科学者などが、東日本大震災以降を生きる私たちに向けて、飾らないことばでメッセージを送る。

 そして、あの虐殺されたストリートチルドレンたちの沈黙。

 この作品に登場し、さまざまな考えや思いを語る人たちの声が、カメラの後ろで自己を語ることを禁欲し、「無私」に徹してひたすら記録を続ける一人の映像作家の顔を、逆説的に描き出している。

 岡村ドキュメンタリーのファンであれば、MST・土地なし農民運動やブラジル奥地の貧しい子どもたち、日本人移民の植物学者の旅を記録した過去の作品を連想し、『リオ フクシマ 2』に、岡村さんのこれまでの歩みや世界観が見事に凝縮されているとも感じるだろう。

 小説家の星野智幸さんが、ご自身のブログでこの点をいち早く指摘している。

 星野智幸 言ってしまえばよかったのに日記

 岡村淳さん新作『リオ フクシマ2』レビュー 
 http://hoshinot.asablo.jp/blog/2018/04/14/8826539

 

 『リオ フクシマ 2』では、岡村さんはピープルズサミット終了後、坂田さん一行を国立公園の森へと案内する。美しいラストシーンだ。緑したたる木々に囲まれたのぼり坂を、岡村さんはカメラを構えて後ろ向きに歩きながら、道端の緑に触れ、滝の水場で遊ぶ坂田さんたちの姿を記録する。

 坂田さんは道中であいかわらず国内外での運動について語り、環境問題を語るのだが、主義主張の殻が破れて言葉がどんどんやわらかくなり、生き生きとしたものに生まれ変わる様に息を飲んだ。

 福島原発事故とその被害について思うところを語り続けながら、彼女は最後に「辛いんです」と漏らしていた。

 時と場合によっては「偽善」とも聞こえかねない言葉が、文字通りの純粋な意味として私のもとに届けられる。そしてここでようやく、坂田さんもまた、無私の心に突き動かされて自分ではない誰かのために生きる人だったことに思い当たるのだ。

 ブラジルの地で出会った坂田さんと岡村さん。ひとりの無私の声を、別のひとりの無私の耳が、沈黙のかたわらにある静けさの中で聞き遂げる。それは、野鳥のさえずりとせせらぎが聞こえるリオの亜熱帯の森で、ことばが、ことば本来のはじまりの意味を回復する奇跡をとらえた瞬間だった。

 「辛いんです」という岡村さんが聞き遂げたことばを、私もまた「私」を脱ぎ捨ててそのまま受け止めたい。そこに、今という時代において信じるに値する意味があり、希望があった。