ASANOT BLOG / アサノタカオの日誌

編集者。本、旅、考える時間。

温又柔の小説『空港時光』

 

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http://www.kawade.co.jp/np/isbn/9784309026954/

 

 休日の海辺の町で、作家・温又柔の『空港時光』を読む。

 空港建築が好きで、空港を描いた映画や音楽が好きで、いつか日本語で書かれた本格的な空港小説を読みたいと願ってきたエアポート・マニアの私にとって、待望の一冊だ。羽田〜台北便を舞台にした10の短編から構成され、とりわけ「親孝行」と「到着」という作品が心に残った。

 空港は、国際線であれば国籍や言語の境界を越えて、さまざまな人種の人びとがそれぞれの思いを抱えて往来する場だ。無国籍的な非日常の空気は人を高揚させるものがあるが、どこか淋しい。搭乗ゲートでは、まるで修行僧のような顔つきで一人もの思いにふける乗客の姿を見かけることがある。そこは、普段は忘れている己の感情とすれ違い、再会する記憶のトランジット・ラウンジでもあるのだろう。

 台湾と日本のはざまで思い出される恋人のこと、従姉のこと、幼い同級生のこと。あるいは台湾国民党の白色テロ大日本帝国の植民地支配、父祖たち、母たちのはるかな歩み。

 意識が宙吊りにされる旅立ちの時間の中で、小説の主人公たちは個人史や家族史に疼くある淋しさの記憶にそれぞれ向き合うのだが、多言語的な文字や音の表現を介してその様子が繊細に描かれていて胸を打つ。そしてどの短編を読んでも、最後には目の前の風景がふっと更新されるような驚きを感じるのだ。

 この本の132ページのエクリチュール、つまり文の流れは美しい。言葉の杖を頼りに世界を生きる淋しさを知るものだけが見ることのできる美しい風景があり、聴くことのできる美しい響きがある。私はそれを心の底から肯定したい。「到着」という作品の感動的な結末部分をここで丸ごと引用したいのだが、やめておこう。ぜひ、自身の目でたしかめてほしい。

 温又柔『空港時光』を読み終えてたまらなく旅に出たくなり、というよりこの小説集を飛行機の中で読み返すためだけに旅に出たいと思った。巻末に収録されたエッセイ「音の彼方へ」では、現代社会において「旅行」を成り立たせる制度や権力を批判するスーザン・ソンタグの厳しい言葉が引かれているが、それでもーー。

 読んでよかった。愛すべき座右の書が一冊増えたことを、うれしく思う。