ASANOT BLOG / アサノタカオの日誌

編集者。本、旅、考える時間。

木村友祐の小説『幼な子の聖戦』

 

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https://books.shueisha.co.jp/items/contents.html?isbn=978-4-08-771709-9

 

 「無意味」によって私たちの社会が占拠されている。

 長期政権下においてひたすらスキャンダルの対応に追われる政治家や官僚たちの発言、あるいはマスコミが次から次へと垂れ流す興味本位のゴシップ。私たちはそれらのあまりに無意味な内容にうんざりし、日々憤ったり落胆したりして、感情の血糖値の急上昇と急降下を繰り返しながら疲弊している。

 つかれきった頭脳の中には、この社会に存在する根本的な矛盾について、疑問を投げかける余力は残されていない。たとえば、東日本大震災からの復興を謳う2020年東京(札幌?)五輪が、震災後の福島第一原発から放射性物質が漏れ続け、原子力緊急事態宣言がいまなお発出される事態との矛盾を抱えたまま開催されることも、あっさりと見過ごされていく。

 メディアを介してウィルスのように大量増殖する「無意味」によって思考が侵されると、目の前にある現実の世界に生きるための目的を見出せなくなり、自身の存在すら無意味化される虚無感に落ち込む。人びとのあいだから信じるに足る「意味」という行方を照らす灯りが奪われ、視界をさえぎる靄のような不安や不満や憎悪の気分ばかりが蔓延する社会では、一触即発の緊張感があきらかにその濃度を増していく。

 大都市の満員電車に乗れば誰もが肌身で感じることだが、この暗い時代に私たちはみな、理由の定かでない「逆上」の一歩手前で、かろうじて平静を装っているにすぎないのだろう。日常は、すでに臨戦態勢に入っている。

 

 芥川賞の候補にもなった作家・木村友祐の「幼な子の聖戦」は、そんな私たちの社会が陥る極限状況を可視化した強烈な政治小説だ。

 物語の舞台は東北、人口約2500人の「慈縁郷村」で行われる村長選。主人公は、村議を務める中年男性の「おれ」こと蜂谷史郎。東京での挫折続きの暮らしを引き上げて村へUターンしたものの、実家が営む会社の後継者にはなれず、会長である父親の根回しによって村議になった男だ。敗北感を癒すように「人妻クラブ」なるセックス・サークルに入り浸っているのだが、A子との情事を彼女の夫に盗撮される。その夫は村を裏で支配する保守派の「栄民党」の県議で、村長選の候補を擁立していた。蜂谷は、盗撮動画を公開されたくなければ対立候補への妨害工作をしろ、と県議から脅迫される。

 対立候補の山蕗仁吾は、村のPR動画の制作や特産品の開発で注目を集め、「いつだって認められる星のもとにある」健全な人間とされる(そのことに蜂谷は「かすかなしこり」を感じている)。選挙演説では東京と地方の経済格差、過疎化や少子高齢化に象徴される絶望的な状況に抗い、旧弊を打破して新しい地域づくりを目指すリベラル寄りの改革路線を打ち出すことで、女性や若者層の支持を集めている。蜂谷は、山蕗とは保育園から中学校まで同級生だったが、どうしようもない嫉妬心も手伝って裏切りを決意し、吐き出すようにこうつぶやく。「おらの、底(そご)なしの穴ば、解放していいんだな……?」

 ネットで山蕗に関するデマを拡散して怪文書を配布し、恫喝まがいの甘言と金で村民を買収する蜂谷は、妨害工作にのめり込むうちに、やがて山蕗を暗殺し、殺される山蕗とともに村の伝説をつくるという荒唐無稽で狂信的なアイデアに精神を乗っ取られてゆく——。

 

 木村友祐のこれまでの文学作品では、現代社会の抑圧や疎外の渦中にあって、国家や資本の力によって存在をなきものとされることに抗い、生きることの意味をみずからの手で取り戻そうとする人びとの姿を希望の物語として描くことが多かった。

 たとえば長編小説『野良ビトたちの燃え上がる肖像』の主人公は、近未来の東京の河川敷に暮らし、アルミ缶を集めて換金することで糧を得る野宿者たちで、そこではかれらの苦闘が共感を持って語られていた。だが「幼な子の聖戦」では真逆の視点に立ち、現実の世界に希望はおろか、絶望すら見出せない虚無を生きながら権力に飼い殺しにされる者が、すべてを意味なきものとするために社会と自己をもろとも破壊し、テロリズムに突き進む内面に肉迫してゆく。

 『野良ビトたちの燃え上がる肖像』の物語には、ゴミ集積所などに「野良ビト(ホームレス)に缶を与えないでください」と看板を掲げる町内周辺に居住する「自警団」や、河川敷から野宿者を追い出すためにガソリン臭のする液体を小屋にまいて火を放つ匿名の者たちがいた。社会の中でそれぞれ立場は異なっても、同じ時代の生きづらさに鬱屈するかれらのその後の物語のひとつが、「幼な子の聖戦」と言えるだろうか。

 蜂谷はかつて、東京で怪しげな宗教団体の合宿に参加し、信仰の道に心が傾きかけたことがあった。「この世に無意味をもたらす破壊者になる」という子供じみた、しかし宗教心にも似た切迫した願いを純化させてゆく蜂谷のまなざしがはかりあうのは、山蕗の選挙演説会場で主人公が見かけた、震災後の福島から避難してきたらしい女の子と胸に抱く猫の「無垢」の目だったことを小説は暗示する。だが、悲願も大義も欠いた短絡的な自己正当化の「ストーリー」の中で鬱屈を深める蜂谷は、けっきょく破壊の天使になることにも、政治的テロリストになることにも失敗するだろう。

 

 東北の南部弁を用いた語りから息遣いすら聞こえてきそうな独特の文体が、不穏な緊張感をはらむ物語の展開を引っ張ってゆく。「幼な子の聖戦」は、つねに失敗し続ける殉教者まがいの男が内に抱える、無垢ともおぞましさとも言えない人間の複雑な性(さが)を執拗に描き尽くすことで、あらゆるものが無意味化される社会を生きるしかない私たち現代人の翳あるリアリティを抉り出してみせる。

 「……あどは、ハァ知らねぇ。いがんど(お前ら)全員、地獄(ジゴグ)さ連れでいぐ」。この小説を読みきった瞬間、理由の定かでない「逆上」を「聖戦」に昇華しようとして待機する匿名者たちの声なき声が、自分の内側から聞こえたような気がして、私は戦慄した。